カテゴリー「映画的全お仕事」の25件の記事

2012.09.16

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(17)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
関連・参考文献 (IDE vol.40 1989:p113)


関連・参考文献(全文献貸出し可)

I章
石丸真一『私の映画観』、映研新聞Vol.4

II章
F・D・ソシュール(小林英夫訳)『一般言語学講義』、岩波書店
丸山圭三郎編『ソシュール小事典』、大修館書店
丸山圭三郎『ソシュールを読む』、岩波セミナーブックス
岡田晋『映画学から映像学へ』、九州大学出版会
杉山平一『映画芸術への招待』、講談社現代新書
岩崎昶『映画の理論』、岩波新書
大石雅彦『映画言語と手法の発見』、イメージフオーラム100号、ゲダレオ出版
村山匡一郎『トーキー映画の試み』、同
小松弘『映像と映像論理の起源』、同
石丸真一『イレイザーヘッド-悪夢映像-』、イデ36号

III章
川崎徹×森田芳光『おもしろさはあみだくじ<対談>』、広告批評54号、マドラ出版
『ファッション狂騒曲』、別冊宝島
河上靖『『SFX』について書いてみた!』、イデ34号
『rシネアスト7 ホラー大好き!』、青土社

IV章
前沢哲爾『ハイビジョン、今始まったばかり』、イメージフォーラム100号、ゲダレオ出版
『キュープリック語録』、イメージフオーラム増刊号「キューブリック」
石丸真一『THE SHINING-これぞ映像的恐怖映画-』、イデ34号

V章
B・エドワーズ(北村孝一訳)『内なる画家の眼』、エルテ出版
A・タルコフスキー(鴻英良訳)『映橡のボエジア』、キネマ旬報社
A・タルコフスキー『二つの世界の問で』、CINE VIVIANT No4「ノスタルジア」
A・タルコフスキー『映画と“カタルシス"』、「ストーカー」パンフレット
樋ロ泰人編集『タルコフスキーAtワーク』、芳賀書店
長谷川集平『映画未満(1~41)』、キネマ旬報連載
長谷川集平『絵本づくりトレーニング』、筑摩書房
ハーパート・リード(滝ロ修造訳)『芸術の意味』、みすず書房
吉田秀和『音楽の退屈』、広告批評107号、マドラ出版
種村季弘『退屈が文化である』、広告批評107号、マドラ出版
『マーラー』シナリオ、細川直子採録、CINEMA SQUARE MAGAZIN NO.52「マーラー」
S・K・ランガー(池上保太・矢野萬里訳)『芸術とは何か」、岩波新書

VI章
丸山圭三郎『言葉と無意識』、講談社現代新書
植島啓司×伊藤俊治『ディスコミュニケーション』、リブロポート
浦達也・松村洋・宇佐美亘『感覚の近未来』、新曜社
黒木幹夫『深層心理学と神秘主義』、「神秘主義を学ぶ人のために」、世界思想社
『モンスーン 土にこだわる第1号』、モンスーン舎
『1986年度ベストテンシネマ(邦画)』、イデ36号
宇野功芳『マーラーと<大地>』、ロンドン・レコード「マーラー;交響曲「大地の歌」」ライナーノーツ
秋山さと子『ユングとオカルト』、講談社現代新書
山崎正一+市川浩編『現代哲学事典』、講談社現代新書
今村仁司編『現代思想を読む事典』、講談社現代新書
宮本忠雄『精神分裂病の世界』、紀伊國屋書店
宮城音弥『ノイローゼ』、講談社現代新書
『最新脳科学 脳は脳を理解できるか』、最新科学論シリーズ3、学研
高橋宏『「心」とは何か』、プルーバックス、講談社
荒俣宏編『世界神秘学事典』、平河出版社

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2012.09.15

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(16)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
VI イメージを超えて(2) (IDE vol.40 1989:p110-112)



言葉の生み出した<意識>

 僕たちにこのような<意識>が現われたというのは、僕らが言葉というものを持っているからです。
 言葉というものは、前に-意味するもの-と-意味されたもの-を持つ記号的なものであるといった。しかし、厳密にいうと単なる記号ではない。記号的なものである前に、事物に対して、これとこれは別のものであるという差異を明らかにするものだ。
 本来すべての事物は漠然として存在している。ここにおいてこれらは秩序立っておらず、何の差異も認められない。しかし、「ボール」、「ツキ」と名付けることによって、この2つには差異が生じ、その結果、個別であるということからの意味が生じてくる。ここでいえるのはこの世の中には、そもそも絶対的である意味を持ったものは何一つなく、したがってそれらを関係づけることにおいてのみ価値・意味あるものとなるということだ。またこういった関係をもたらすのは唯一言葉というものである。またその価値・意味というのは唯一人間にとってだけのものである。
 言葉と意味、そして意識は微妙な絡み方をしている。
 僕らはまず言葉を知らされた。たとえば、ボールで遊んでいると、これは「ボール」よ、と母親か誰かに教えられる。今度は、空の月を見て「ボールだ」というと、笑われ、あれは「ツキ」というのよ、といわれる。ここで、同じく「丸い」けれども、「ボール」は「手に掴めるもの」、「ツキ」は「手に掴めないもの」として捉えられる。「ボール」や「ツキ」と名付けられているものをともに知ることによって、ようやく「手に掴めるもの」か「手に摺めないもの」かという新しい差異、概念がもたらされるのです。このように言葉を多く知らされることによって差異に対する認識が必然的に必要となり、さらには認識網というのが確立されて、やがてそれは自分自身の認識網としての自己、つまり<意識>となっていったのです。


過剰な<意識>

 <意識>が見出だしているのはすべて、意味要素を担ったものである。これは何々という完結的な意味はないにしても、すべてが関係の上から取り立てられたものである。だから意識するということは、物事を分断するという行為ともいえる。
 <意識>による理性が今まで為してきたことは、世界を分節化し、その断片断片を再び結合したということだ。たしかに科学技術の発展というのは理性の為せる技であり、それによって僕たちの生活は豊かになった。しかし科学の発展というのはあるものを分節し、それによって得た断片を再び分節し、それによって得た断片をさらにまた分節していくという連鎖反応的なものの結果であり、それによってもたらされた生活の豊かさというのは豊潤なものというよりも、より断片的でよリ偏ったものになりつつある傾向がある。
 誰もが恐れているのが死というものだけども、民話などは恐ろしいほど軽々しくこれを扱ってのける。子供向けの『マザー・グース』なんていう童話(?)でも死を扱った残酷なのほ幾つもある。こういった伝承的な物語に死が頻繁に見られるというのは、断片的でない広い視野で人間を見ると、実は死さえも人間の取リ得る一つの形態にすぎないということだ。結局死というのは、生まれることや食べること、眠ることと同じレベルでしかない。しかし医学の発達で人間の死というのが生というものから分離され、誇大して見られるようになった。意識しすぎるようになったのだ。医学部生で、将来医者になるであろう小山は「うつりゆく世の中で生命の死というのは永遠である。一度死ぬと、その事実はくつがえざれない。それゆえ死というものは人間に大きくのしかかってくる」といった。でも敢えて僕はこういってしまおう。「うつりゆく世の中で一つの生命の死というものは実に取るに足りないものだ」
 意識過剰というのはさらに進んでいく。何かをしなければならない、何か意味のあることをしなければならない。僕らにはたいてい常にそんな焦りがある。湯布院映画祭実行委員長の田井さんがエッセイでこういっている。「日々生活をしてゆくためにだれだってそれがおもしろいおもしろくないとは無縁に働くだろうし、そのことで生活してゆく。不満はあるだろうけど、それでも生活があってこそ、はじめてそこに「潤いがほしい」と思ってみたり、本当にやりたいことをやってみたりか始まるのじゃないか。「何かやりたい」と半ば強迫観念で口走ってしまうのを耳にすると、「じゃあ、あなたはなにもしていないのですか」と聞きたくなってしまう」僕らは何をそうカラカラと焦っているのだろう。
 皮肉なことに、件の天才作曲家マーラーもまた人生の意味というものを偏執的に問う人間だった。彼はただただ死を恐れ、人生の虚無と無常にうちひしがれ、そして多くの曲を書かずにいられなかった。


<無意識>のなかに眠っているもの

 <意識>というものはいうまでもなく、人間というのをかたわにしてしまった。だからといってこの<意識>からは逃れることはできない。こういった理詰め的・分節的な<意識>の出現で総体的なものが押しやられてしまった。いうまでもなく<無意識>の中にだ。もっとも<無意識>というより<意識下>といった方がいいかもしれないけど。それが感じられなくなってしまった。
 こんな体験がある。おそらく皆似たような体験が一度はあると思う。春だったか、天気のいい日だった。で、何気なく歩いていると、ふぁーっと突然体が軽くなって、自分が辺りの空気に解け込んでしまった。僕も辺りの木も建物もまったく同じレベルになっている。無性に嬉しくて仕方なかった。そして、なんだそうだったのかとすべてがわかってしまった。そこに宇宙的なものを感じたのだ。
 こういうのはBE(=あること)感覚っていうことになるらしいけども、存在すること自体が素晴らしいという感覚だ。これ以上何も必要じゃないじゃないんだろうかという、そんな感じ。なにをそんなにセカセカしているのだろうと、今までの自分が不思議で仕方なかった。また、死んでしまうことだって何でもなかった。永遠を感じた。意識によってでなく、僕は体感的にそれを取った。てもそれを意識的に意識したらすぐに醒めてしまった。
 <意識>の下に追いやられているのは、こういったものではないだろうか。つまり、宇宙というもの。


<イメージ>から現実へ

 五感とか、感覚機能の鈍ってしまっている僕らは、宇宙的なものに気づかないでいる。
 優れた<イメージ>・作品に出会う。撲らは無意識のうちに惹かれ感動をする。その時僕は<意識>から遠ざけられ、<無意識>のもと感性的になっている。その<イメージ>・作品の漂わせている宇宙の感覚を受け取ると同時に、感性自体も養われている。つまり、宇宙を感じるための感性だ。よリ鋭くそれを感じるための。
 ここで僕のいいたいのは、意識を捨て、無意識に本能に退行しろということじゃない。無意識に閉じこもってしまえば、人間社会というのは成立しなくなる。人間はやはり意識を得った、そして社会的な動物なのである。つまり、宇宙を感じたときのあの感覚、いうならば愛とでもいうか、をいかに意識的して自分の生きている社会に反映させるかが問題なのである。そして、それが実現できるというところに人間の素晴らしさというのがある。
 いうまでもなく<イメージ>は僕らに残された最後の武器なのです。

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2012.09.14

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(15)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
VI イメージを超えて(1) (IDE vol.40 1989:p108-110)


VI イメージを超えて


<意識>と<無意識>を持つ人間

 再び別の角度から<イメージ>というものを考えてみたいと思います。
 僕らは常に何か意識している。決して無意識じやない。でも、マーラーはいった。「音楽が僕を選んだのだ」これはどういうことかというと、マーラーはその音楽を意識して創ったのではなくて、無意識のうちにあるメロディーラインが浮かび出て、それを彼が五線譜に移し取ったということです。
 また、真の<イメージ>・作品に対して僕らは言葉を失う。たとえは、ガウディの『サグラダ・ファミリア』を観たとき、僕は何もいうことができなかった。それを言葉で説明すること、意識して理性によってそれが何であるかを示すことがまったくできなかった。ただ説明できないまま、<無意議>のまま、惹かれていた。
 こうやってみると<イメージ>というのは、<意識>と<無意識>の戯れだということができる。
 <意識>と<無意識>を持つ人間の宿命的という点から、<イメージ>の重要性を明らかにしてみたい。


<意識>というもの

 普段僕たちは<意識>というスーツを身につけている。<意識>というのは、知リ得ている自分の中の世界、つまり、主観と、また知り得ていない外の世界である客観とを区別するというものです。だから、僕らが知り得ているのは主観、つまり、自分自身・自己の範囲内でしかない。そして、さらに意識することによって、客観を主観として組み込んでいく。
 ここに挙げた図はJ・ルーシュとG・ベイトソンによる「情報を整序化し了解するプロセス」、つまり、自己(主観)と環境(客観)の関係を示したモデルです。このモデルをもとに「自分」と「太陽」の関係を示してみようと思います。左側の円環は「自分」を、つまり、有機的組織体の内部での働き掛け回路を示し、右の円環は「太陽」、つまり、組織体によってその外部に働き掛けられたものが、回り回って再び組織体に働き掛けるという回路を示している。この場合、ここでは「自分」が「太陽」を見ようとして、そして、見るという状況が表されることになる。点線で示されたのが自己の領域で、点線にあるように領域の移動は可能になってる。
 <意識>において問題なのは、意識することによって、どの範囲まで自己が浸透するかということです。いうまでもなく、自己で捉えられたものは、フィルターを通しての仮の姿ということであって、「幻」的なものになる。フィルターを通すというのほ、そもそも存在しないものが単にフィルターに映っているだけかもしれないという、印象をも与えるからだ。図では意識され得ない、自己というフィルターの外である、「環境」というのがあるけども、このような「環境」が存在することによってそれは実体を持つものになる。
 普段、自己は段階1のような自己の境界を持っています。たとえば、ふと、空を見ると雲の切れ目から太陽がある。『あっ、太陽だ』と思う、太陽だけを見るのがこの段階です。「自分」においても「太陽」においても、環境というものがある。「自分」「太陽」ともに実体を持っている。
 段階2では、自己が太陽の環境であった部分までを覆う。表層だけでなく深層、つまり、「太陽」が見えているということだけでなく、「太陽」が存在するということ、にまでにも意識が及ぶわけだ。ここにおいては、「太陽」が完全に自己の幻と化して、「太陽」に関して『自分のなかで太陽がまわっている』という印象を持つ。
 また、意識がさらに進み、この自己どいうものが肥大化されてくると、「自分」までもがその領域に入ってしまう。それが、段階3である。どういうことが起こるのかというと、ここにある自分は肉体を含めて、すべてが幻ではないかという感覚に襲われる。自己というのはそもそも掴み所がないものだから、さらにこれを誰かの夢とさえ感じる。また「自分」の外部も自己の領域にあるから、『誰かの夢の中で、自分が太陽をみている』どいうようになる。押井守の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(194)や『天使のたまご』(1986)はこの<意識>の肥大によって生じた夢妄想をモチーフにしている。また、米国のカール・プリグラムという神経生理学者に到っては、脳の研究の末、「万物は本来、われわれが知覚するこの世界とは全く別の、ある根源的な次元に属するもので、そこから我々の世界に波動を送っている。われわれは、ただ受け取った波動を脳ないで処理し、再構成しているのではないか。われわれが知るこの宇宙はすべて壮大な幻、すなわちホログラフイ(立体写真)なのだ」という論までも打ち建てた。こうなればここにいる自分というのはまったく存在のない幽霊と化してしまう。当然精神的には「虚無」の状態になって、精神障害を来すことになる。
 このように<意識>を持つ僕らは常に、自分の存在さえも疑わしくなるような不安定さにさらされている。
 またこのような不安定さというのは極端なもので、これにそうそう襲われるものではない。しかし、僕たちが普段多くが感じていること、「生きている意味がわからない」というのはこのく意識>が存在するためだ。

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2012.09.13

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(14)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
V 永遠なるイメージへ(4) (IDE vol.40 1989:p107-108)



カタルシスというもの

 アインシュタインは、<美>を求めた。しかし、湧いてくる<イメージ>というのは、必ずしも美しいものとは限らない。カフカの『変身』に描かれているのは「不条理」というものだ。また、山野が『3/4ドキュメント』で描こうとしたのは、やるべきことが見えてこないという「虚無感」である。しかし、これらもまた<イメージ>であることは間違いない。「醜さ」というのでは決してなく、いわば「悪夢」的に迫ってくるこれらの<イメージ>が僕らにもたらすのは何だろう。また、このような<イメージ>が湧いてくるというのは、貧困な精神のためなのだろうか。
 僕らには痛みという感覚がある。この感覚、ないと大変なことになる。時たま、遺伝的な疾患で痛みという感覚のまったくないという人がいる。盲腸炎なんてのは、痛みでわかるのだけども、でも彼にはわからない。彼にとって日常生活というのは大変なもんで、常に注意してなければ昔の人のように盲腸炎一つであっけなく死んでしまったりする。だから痛みというのは、そこに疾患があることを教えてくれる唯一の警報機なんです。
 痛みが体の歪みを示してくれるのなら、心の歪みを示してくれるのがこの「悪夢」のような<イメージ>です。体が鈍っていると痛みは感じない。痺れた足をいくらひっぱたいたって、ちっとも痛くはない。心の歪みにしたって同じです。鈍った心は歪みを感じない。そしてそのままほっておくと折れてしまうというのは明らかです。澄んだ心、優れた知性によってこそ、歪みは見出だされるのです。つまり、<イメージ>によって真実が示されるのです。
 アリストテレスが『詩学』でいいだしたことだけども、精神の浄化を意味する<カタルシスkatharsis>というのがある。これは、悲劇の与える恐れや哀れみの情緒というのは、観客がそれを味わうことによって、日頃心に彰積していたそれらの感情を放出させ、心を軽快にするというのです。もっとも<イメージ>によって明らかにされる意識下の歪みが複雑になってくれば、単に一時的に感情を放出し、スッキリするだけにはいかなくなってくる。さらにそこでいかにその歪みを理解し、その原因となるものに対処、克服し、<本質>・保たれるべき理想状態に向うかという問題が起こってくるのです。
 また、このような歪みを示してくれる<イメージ>というのが存在するというのは、いうまでもなく人間にはあるべき姿があり、無意識のうちにそれを望んでいて、またそれを実現させる力を持っているということです。


<イメージ>は偉大なる財産

 これらのことが<イメージ>に隠されている意味です。
 また同時にこれらは、数千年前に描かれた絵もが、なぜ僕らの観賞に堪え、さらには感動をも呼び起こし得るのか、ということの理由でもある。
 <イメージ>が<イメージ>であるかぎり、僕らには他人にそれを提示することしかできない。つまり、僕の<イメージ>が何を意味するかを知っていたとしても、たぶん僕自身そのすべてを知リ得はしないだろうけども、誰にも教えられないのだ。直観として悟り、理解してもらうしかない。
 もっとも、何事に関しても、ほかの誰かに何かを教えるというのはもともと不可能なことだ。なにかを強制することは可能かもしれない。しかし、理解を強いることはできない。僕らにできるのはそれを理解するに到った僕らの遭遇した事実、それを提示することだけだ。
 また、タルコフスキーが言っている。「傑作は、天才性を主張する作品のなかから、必ずしも識別されうるとも、されないともかぎらないままに、機雷敷設区域の警戒標識のように、世界中にばらまかれている。われわれが吹き飛ばされないのは、単なる幸運からだ!」。これはどういうことか。僕ら自身まだまた発展途上にあるってことだ。あらゆる意味で。
 そうして、死の一週間前に書き上げた著書の最後で彼はこう言い残した。「問題のすべてはわれわれが想像上の世界に生きており、われわれ自身がこの世界を創造しているということなのだ。それゆえに、われわれ自身、世界の欠陥にかかわっているが、その利点にかかわることもできたはずなのある。最後に、読者を完全に信頼して打ち明けよう.実際人類は芸術的イメージ以外には何一つとして私欲なしに発見することはなかったし、人間の活動の意味は、おそらく、芸術作品の創造のなかに、無意味で無欲な創造行為の中にあるのではないだろうかと、と。おそらく、ここにこそわれわれが神の姿に似せてつくられている、つまリ、われわれに創造する力があるということが表明されているのである」

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2012.09.12

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(13)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
V 永遠なるイメージへ(3) (IDE vol.40 1989:p105-107)



理論に<美>を見出だすアインシュタイン

 作家そのものではないけども、天才物理学者のアインシュタイン、彼に関して非常に興味深い逸話が幾つか残っています。アインシュタインは<美>に対する執着が激しく、理論においてでさえ、もし<美>が感じられなかったならば、一言「醜い」といって見向きもしようとしなかった。また、彼がそれを嫌うだけでなく、他人がそんな醜いものに喜んで携わっているのが理解できなかったという。また、優れた理論や仕事の最高の賛辞というのは、正しいという言葉ではなく「美しい」という言葉だ、ともいった。そうして、<美>こそが論理物理学の重要な研究を導く原則だというのだった。
 彼の従事していた理論というのは、「ある物事に対して、原則・法則をよりどころにして筋道を立てて考えた認識の体系」というものです。だから、理論というのは認識そのものでもある。いままで<イメージ>の話をしていたのだけども、<イメージ>というは決して意識の外にあるのではなくって、必ず意識されたものです。したがって、<イメージ>というのは、認め確認されるもの、認識されうるものともいえるでしょう。理論家の脳裏には常に理論化される前のある物事に対する<イメージ>があるというわけです。理論家というものの作業というのは、第一に事物に関する<イメージ>を掴み取り、さらに第二にそれを、この場合、原則・法則をよりどころにした筋道ですが、フォルム・形へと置き直していくということです。これは、画家が絵を描くという作業と全く同じです。
 アインシュタインが理論に<美>を求めたというのは、1つは、<イメージ>がいかに理論として筋道を立てて具象化されているかという点だろう。たとえもともとあったその<イメージ>がいくら素晴らしいものでも、デッサンの下手な絵からそれを伺い知るということはからっきし不可能だから。理論化する場合は特に注意しなくてはならない。今僕はこうやって理論化の真似ごとのようなことをしているのだけども、正直な所、途中辻褄(つじつま)の合わないところが幾つも現われ、絶えず修正を強いられている。ということは、もともどあった<イメージ>というのが歪んできているわけだ。だから、この文章というのは全体的に何を言っているのか分からないということからの「醜さ」が十分にあり得る。まず、その<イメージ>が確かなこと、そして具象化の技術の完壁さが必要なのです。


<本質>は<美>を呼び起こす

 第二に、おそらくこのことをアインシュタインは言っていると思うんですが、その<イメージ>自体のことです。アインシュタインは、納得でき、理に適っていると思われる理論でさえも、「醜い」といったそうです。つまリ、彼はその理論から再びその理論のもととなる<イメージ>を再生し、その事物に対する<イメージ>、それ自体を「醜い」といったのです。たとえば誰かが『この世はすべてお金だ。お金さえあれば、楽に自由に暮らせられる』といったとする。これは彼のこの世の中に対しての<イメージ>です。さて、どう感じるか。僕は、「醜い」と感じます。たぶん多くの人がそうでしょう。アインシュタインの持った「醜い」という印象はこれと同じです。彼が「美しい」と感じた理論というのは、いうまでもなく<本質>をついたものだからです。「美しさ」の中には常に秩序が保たれている。そうしてそこには、自然の保たれるべき理想的な形態・真理があるのです。事実、彼以上に自然界をうまく示し上げた人は現われていません。
 ここでも例の知性の問題が係わってきます。たとえば「この世は○×だ」というとしよう。ここには○×というわけの分からないものがある。僕らの理解を超えている。これは「美しい」ということはまずなくて、かといって、「醜い」かというとそうでもない。ただ単に分からないということです。こういった「醜い」とか「美しい」という直感・印象は如実に自分の知的レベルを反映しているんです。
 アインシュタインに話は戻るんだけども、彼の携わってきたのはあくまでも物理学という数式上の投界です。だから彼は事物を数式的に見ていたわけだ。彼の「相対性理論」なんていう偉業というのは、事物の<イメージ>を数式というもので捉える視覚的能力に長けていたことによる。その能力がただならないものだったというのは彼に理論が<イメージ>として見え、それに<美>を求めたということでも明らかだ。それと、物事を直観的に把握し見極める力、知性である。いうまでもなく彼は人並み外れた天才です。
 彼の研究によリ、原子爆弾が開発され、ヒロシマとナガサキに投下された。そこで多くの人間が死に、彼は苦しんだ。この苦しみというのは、『マリリンとアインシュタイン』(ニコラス・ローグ、1985)という作品に見事に描かれている。彼にとっての<美>というのは単に事物の現象の数式化においてだけでなく、人間の在り方においてにも見出だされていた、そして周知の通り、彼は核兵器廃止・平和運動に尽くさざるを得なかったのです。

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2012.09.11

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(12)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
V 永遠なるイメージへ(2) (IDE vol.40 1989:p104-105)



例え話と<イメージ>

 とはいっても<イメージ>からによってではなくて、たとえば筋道を立ててそれを説いていくという理性によって概念を記述したのものからでも、その<本質>を知ることができるというかもしれない。でも、それは明らかに闇違っている。たとえば、「椅子」であれば、「人が座るためのもの」と<本質>をいいあてることができるかもしれない。だけど「椅子」のように人為的に作り上げたものでない、自然界のもの、自然発生的なものは、<イメージ>でないと<本質>は語り得ないのです。
 クイズ、さてこれは何でしょう。『岩よリ小さくて、砂より大きい鉱物質のかたまり。また、広く、岩石、鉱物を総称する』。そして『まるい形。また、まるい形をしたもの』は? これは国語辞典で引いた「石」と「丸」です。国語辞典というのは、それがどんなものであるのか知らない人が言葉という概念からそれを知るために用いるというものだけども、これで「石」や「丸」がどういったものだか分かりますか? 「丸」なんてのは、そのもの「まるい形」とあって、ほんとわけわからない。わかりきったこというなって言いたくなる。「石」なんかも知ってれば、これは確かに「石」なんだけど、知らなきゃ、さっぱりだ。僕がこの2つを知らない人に説明するんだったら、「石」なら『道端に転がっている小さくて堅いやつ』、「丸」なら『お月さまの形』とかいうだろう。またこの方が実際ずいぶんとわかりよいはずだ。でもこれはまさに僕の持っている「石」や「丸」に対する<イメージ>に他ならない。これはまさに、そのもの、<本質>を現わすためには<イメージ>を用いるしかないってことを示している。
 このことは、この文章でもいえることだ。僕が今説明しようとしている<イメージ>というのは自然発生的なものだ。また、この<イメージ>に関しての統一全体的なもの、<本質>的なものを携えたイメージ自体は、僕の頭のなかに存在している。でも、悔しいことにそれをそのまま全体として見せるすべを、僕は知らない。だから、せめて僕にでもできる、論文風に体系立てて、部分的に分割し、それを一つ一つ明らかにしながら、再び全体を明らかなものとして現わす、そういったことを試みている。そして、全体では無理にしろ、断片的な部分ではより<本質>に近づくために、そのままある言葉でストレートに言い切ってしまうというのではなくて、少しでも<本質>を携えた<イメージ>的な比喩に頼ろうとしている。この文章に例え話の多い理由だ。
 ちょっと脱線するけども、物事ををらう場合、「形から入れ」、なんてよくいう。剣道を習ったことのある人は知ってるだろうけど、最初はイヤというほど形ばかりをやらされる。でもそうやっているうちに、何だかよくわからないけども不思議と何かが見えてくる。剣道の心っていうか、そんな感じのものだ。また、お辞儀というのも同じ。尊敬なんてまったくないのに、いつも形式的にお辞儀をしていると、いつのまにか尊敬の念が呼び覚まされているのに気づく。つまり、こういった剣道の形とか、お辞儀というのは、遥か昔から伝承されてきた、剣道の心や尊敬の念をもたらすための理想的な形だ。この形というのは他ならぬ、「剣遵の心」や「尊敬の念」の動作的<イメージ>というものだ。「形から入れ」とはよくいったものだ。


精神はイメージを選択する

 前に<イメージ>は湧いてくるものだと言ったけど、この湧いてくる<イメージ>、人によってはその質が全く違ってくる。このことにも注目しておく必要があるでしょう。
 また、言葉の問題になるんだけども、日本に自然界の氷、つまり、自然に固体化したH2Oの状態を示すものは幾つあるでしょう。ちょっと調べてみると、氷、流氷、氷柱(つらら)、樹氷、霧氷、雨氷、霰(あられ)、霜といったところで、その他いくつか残っているとしても十幾つだ。僕らは氷に関してこの十幾つに見分けている。だけど、エスキモーになると、この氷を示す言葉というのが何十という数にもなる。これはどういうことかというと、エスキモーというのは日本人に比べて、氷というものについてはるかに認識が深いということです。彼らは氷と生活しているようなもんだからそんな風になってしまったんだろうけど、この氷に関しては日本人よりはるかに多くのことを見極めているというのは事実だ。エスキモーのいう××という氷と○○という氷について僕らは普段判断がつかない。これは、僕らにはそれらが見えてないということなんです。つまり、氷のその状態の差ってのが。僕らほすでにその差のあることに対して自体、目をつむってしまっている。
 ここでいう差っていうのをいかに認識しているかというのが、いうまでもなく<イメージ>の質にかかわっている。<イメージ>は湧いてくる。でも、僕らが普段全く気づいていない××という氷とか○○という氷とかが<イメージ>として僕らに現われるかどうかということです。まず、現われることはないでしょう。氷に関して僕らに現われる<イメージ>といったら、やはり氷柱や樹氷でしかないのです。
 これらの事実は、<イメージ>がいかに彼の精神性に直接係わっているかということを如実に示しています。<イメージ>は彼の外から、無意識に湧いてくる。しかし、それはあくまでも彼の精神というフィルターを通してのものなのです。彼がより高い精神性、つまり、より高い見極める力を持っていたなら、無意識のうちにも間違いなく、より豊かなそしてより<本質>に近づいた<イメージ>のみが彼にもたらされることになるだろう。だから作家に精神性や知性が求められるのは必然的なのです。
 このようにいうと、<本質>や<イメージ>というのは彼によって創られたものじゃないかという感じがしてくる。そうじゃない。全てはすでに与えられているのだ。ここでただそれを見るということが必要なのだ。<イメージ>として、あるものとして、それをできるかぎり受け入れようとする気構えがなされていなくてはならない。もっと心を広げて。そして、見逃さずに。

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2012.09.10

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(11)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
V 永遠なるイメージへ(1) (IDE vol.40 1989:p102-104)


V 永遠なるイメージへ

そこにあるもの、<イメージ>と<生命>

 今までは<イメージ>というのはどういうものかということを中心に見てきたわけだけども、今度は、作品において僕の最重視する<イメージ>は僕らにとってどんなものか、<イメージVの意味というものを見ていきたいと思います。
 その前に、<イメージ>とはどういったものか、もう一度簡単に整理しておこう。
 <イメージ>とは何かの代わりでは決してない、紛れもない存在であるる。また同時に、何も意味してはいない。ただそこに、自分のなかに、あるものである。
 取り立てていっておきたいのは、<イメージ>というのは意識されて作られるものではない、ということだ。ケン・ラッセルのマーラーの伝記的映面『マーラー』(1974)のなかでこの天才作曲家はいう。「僕が音楽を選ぶのではない。音楽が僕を選んだのだ」<イメージ>はこのように無意識のうちに湧いてくるものである。
 ここでこのように言ってしまうのは、随分突拍子もないように思われるかもしれないけども、<イメージ>というものの性格は、各人誰もが持っている最も大切なもの、<生命>というもの、それと似ている。
 <生命>について考えてみる。自分にとって最も大切なものがこの<生命>というものだけども、しかしそれは同時に最も説明しにくいものでもある。事実、僕はここに生きている。生きているからこんな文章が書けるんだろうけども、これは生きているからこそできるというわけであって、少なくともこの文章を書くために生きているんじゃない.「生きるために食べるのか、食べるために生きるのか」なんて、よく酒落たりするけども、食べるために生きるなんて馬鹿なことがあるわけがなくって、やはり生きるために食べている。いくら理由らしきものを挙げてみてもこういう風でしかなくて、<生命>の決定的な理由なんてのは皆目見当らない。だから、僕が生きることを始めた、<生命>を持ったということ、それには意味らしい意味はないとしか言いようがないみたいだ。なんたって、僕の意志によってそれを始めたんじゃないから。僕の知っているのは、すべてその結果だ。
 だから<生命>そのものについて敢えて説明しようとするなら、「ここにあるもんだよ」ということになってしまう。こういうふうに見てみると、ともに意味がないけど、やはり存在しているという点で、<イメージ>とく生命>というのはとても似ている。いや、そうではなくて、全く同じものなのかもしれない。また、自分自身無二の<生命>があるからこそ、自分自身無二の<イメージ>が存在しているということで、この2つは深く係わっている。さらには、表裏一体だ、ということもできるだろう。デカルトの『我考える、ゆえ我あり』、ならぬ、「我イメージあリ、ゆえ我あり」。
 ここまで率直に言ってしまえばもう分かってしまうと思うのですが、僕の映像作品論の骨子というのは、とどのつまり、<イメージ>は<生命>に帰結してしまう、という所にあるのです。


イメージは本質を携えてやってくる

 さて、<イメージ>と<生命>というのは全く同じだ、ということだけども、たとえばフィルムに映像化された<イメージ>と<生命>とは全く違う。じゃ、どこが違うのかと言えば、一方は具象的で目に見えるものであり、また一方は目には見えないということです。つまり、目に見えるか見えないかの違いがあるわけです。ということは、形にならない<生命>を形として見るためには、形となり得る<イメージ>を目に見える形に具象化すれば、それでいいということになる。したがって<イメージ>の具象化というのが、<生命>を直接確認するための唯一僕たちに残された方法だということになるのです。
 作家が作品を創るとき、創造活動を行なうという。この「創造」という言葉の周辺を考えてみると、不思議と同じことが言える。英語の<創造crea-tion>には"神の天地創造"や、"宇宙"といった意味がある。なんにもないところに、神が天地をつくることというわけだ。だから創造活動というのは、僕らが神に代わって、天地創造を行なったり、宇宙を創ったりする活動を意味するということになる。しかしまた同時に僕らは、神によって創られた天地や宇宙にいる<生命>を付与された<被造物creature>でもある。じゃ、僕らの行なっている創造活動というのは何なのだろうかというと、それはいうまでもなく自らをもう一度創りあげるということだ。ここまでがさっきの、<イメージ>によって<生命>を確認する、というところにあてはまります。
 しかし、今度は神というのがある。神に代わって自らを創りあげることになっている.じゃこのとき、いったい何が起こるか。つまり、神そのものを感じるというわけです。神自身の持つ感覚を覚える。
 神なんていう大時代的な言葉を使ったけども、これは<始源>という言葉に置き換えても一向に差し支えない。つまり、何にもないところから天地創造さえも行なわれた<始源>、「始まり」っていうこと。またあるいは、「始まり」が起こるための意味、それ自体がもたらされている意味、ということで<本質>とさらに置き換えることも可能だ。そもそも物事というのはいくら進化しても、その<本質>的なものから離れるということは決してないからだ。もしそれから離れたとするならば、それは全く別なものになってしまう。そして<本質>には常に偉大なもの、つまり、根源的な価値が隠されている。だから、<イメージ>の具象化をする創造活動というのは、いうならばそこにある<生命>を自覚し、さらにその<本質>を知るという行為だ。

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2012.09.09

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(10)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
IV 光と影を写し撮るフィルム (IDE vol.40 1989:p101-102)


IV 光と影を写し撮るフィルム

映画は<光>だ

 映像における<イメージ>について具体的に示しておこうと思う。
 僕が少なくとも映画的に素晴らしいと思った作品、A・タルコフスキーの一連の作品(とりわけ、『鏡』以降)、『ミツバチのささやき』、『シャイニング』(スタンリー・キューブリック'80)、『四季・ユートピアノ』(監督・製作年不詳、NHK製作)、『ディーバ』(ジャン・ジャック・ベネックス '81)、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(ジム・ジャームッシュ '83)、『イレイザー・ヘッド』、『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』(ニキータ・ミハルコフ '76)等の共通点を挙げるとするならば、これらはすべて<光>を巧みに使った作品であるということです。僕はそれらの持つ<光>のくイメージ>というのを決して忘れることができない。
 <光>というのはフィルムに積極的に参加してくる。いや、闇違わないで欲しい。フィルムに撮るということ、また、スクリーンに映すということ、それ自体<光>との戯れなのだから。フィルムに撮るということは、ある事物を写すというのではなく、そこにある<光>をフィルムに写し撮ることであリ、またスクリーンに映すということはフィルムに刻みこまれた<光>を映写機の<光>によって再現することだ。フィルムがなかった頃、人は感じ取った<光>というものを必死で手中に収めようとした。ミレーの『落穂拾い』『晩鐘』『種まく人』を観るとそれは一目瞭然だろう。
 フィルムとビデオでは、メディアが違うと前にいったけども、まずこの<光>という点で端的に違いが出てくる。ビデオでは<光>を信号にして磁気に記録するため、直接<光>を拾うフィルムにみられる<光>のまろやかさというものはない。あくまでも刺々しくストレートにそれが記録されるだけだ。<光>に関してやや無機質がかったビデオという映像メディアは、その特質からは造形とその動きを捉えるというのに向いている。


<ムード>をつくる<光>

 スクリーンに映像として現われた<光>は瞬時にして印象付けられる。確かにその映像の中には、読み取られるべき造形、人物やその背景があるかもしれない。だけども見られるのは映像全体であって、しかもそれ全体を覆っている<光>というものがまず否応なく捉えられてしまうわけです。そしてその<光>によって、その映像の<ムード(雰囲気・気分)>は決定される。映像における<光>というのは、演奏における楽器の音色以上の要素を持っている。音色に注意されず楽器が選ばれ、そうして行なわれる演奏というのはまったくズサンで聴けたものではないけども、映像ではそれ以上なのだ。また、映像における<ムード>こそ、映像に描かれ得るくイメージ>の一つに他ならない。
 フィルムを回すということは、第一に<イメージ>として<光>を作り上げ、第二にしかもなお自然な<光>として、それを写し取るということです。『グッドモーニング・バビロン!』(バオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ、1978)には、「映画は光です。電球ではなくて自然の太陽の光が顔を照らすとき、観客も一緒に光を感じなくてはなりません」という素晴らしい台詞があるけども、この作品自体残念なことにその点においてまだまた不満の多いものだった。<光>を生み出すことは難しいが、しかし、これが成し遂げられたとするとその映像は95%は完成されたといっても過言ではないでしょう。
 フィルムにおいて<光>を生み出す。これはいうまでもなく、一つの世界を創りあげることです。
 実写映画とアニメーション映画との違いを挙げると、それは<光>ということに尽きる。実写映画では撮影現場で照明によリ創り上げた<光>をそのまま利用することができるけども、アニメーション映画では、画を描く際一枚一枚意識して<光>を与えなければならず、それは困難を極める。とりわけ日本でのセル画を用い、大量生産的につくられているような長編アニメーションでは積極的にこの<光>、つまり<ムード>を無視しようとしている。その結果生まれてくるのは、一見描写豊かに見えて、実はフラット(平ら)な単調で薄っぺらな画ばかりだ。だから、物語ですべてを片付けなければならない。そういった意味で、宮崎駿がいかに優れていようが、やはり彼の作品は精密に動く漫画のレベルでしかなく、直観的に訴えかけてくるものは何もない。彼の投げ掛けようとするものは、キャラクターやその動き、そしてドラマというオブラートに包まれており、それを観る僕は常に焦れったさを覚える。ここに僕が日本のアニメーションのやり方を嫌う理由がある。しかし、ソ連の切り絵アニメーション作家、ユーリ・ノルシュティンの『話の話』(1979)などになると話は異なってくる。そして、彼の緻密で詩情あふれる作品は、1年間にほんの10分ぶんだけ、創られる。

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2012.09.08

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(9)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
III 2つの印象(3) (IDE vol.40 1989:p99-101)


<イメージ>と<エモーション>

 ここでは2つの印象を与える非言語的なもの、<イメージ>というのを見てきたのだけども、その内の1つ“面白い・興味を注がれる"的なものは、確かに言葉に表せないものには違いないのだけども、しかし、本来<イメージ>と呼べるものではないのではないかということです。<イメージ>というものは、<センス>や<壮大な見せ物>に肩を貸すものではない、あくまでもそれ自体独立したものなのです。
 <イメージ>は“じんわりとした・心にしみわたる“的なものであって、それから<エモーション>が与えられるといったんだけども、<イメージ>と<エモーション>は次元をまったく異にしたものです。確かに<イメージ>からは常に<エモーション>が呼び起こされます。そもそも<イメージ>というのは1つの事実に他ならなくて、僕らはいつも自分外の対象に心を揺れ動かされているからです。だから必然的に<イメージ>によって<エモーション>がもたらされるわけです。じゃ、<エモーション>をそのまま与えればよいのかといえば、決してそうわけでもないのです。
 <イメージ>と<エモーション>の関係というのは、石が水面に投げられるときのあの様子に似ている。<イメージ>という石が心という水面に投げられる。投げられた石は水面に波動を起こして<エモーション>という波紋をつくる。この2つにはそういった関係がある。だから、<イメージ>が、"じんわりとした・心にしみわたる"的だといったのは、<エモーション>が広がっていっているというわけです。もし、その波紋をもう一度別の水面で再現しようとすると、どうすればいいでしょう。つまり自分の<エモーション>を真に別の誰かとわかちあうのにはどうすればいいのでしょう。そこで直接、波紋・<エモーション>をいくら再現してみせたって仕方ないことです。石を投げてやらなければ、結局何も起こらないんです。自分の波紋をつくった石そのものを再現して、再びそれを投げるのです。彼の持つ水面というのは、自分の水面とは違ったものかもしれない。でも、同じ石を同じ方法で投げ掛けてやるというのが、同じ波紋を起こす最良の方法なのです。そして、創り手に投げられた、その石<イメージ>にこそ最も大切なものが隠されているはずなのです。
 山野は『3/4ドキュメント』という作品をつくったのだけど、これは<エモーション>そのままがもとにされてつくられている。しかも視野の狭い、あくまでも彼の生きている現実に即した直接的な<エモーション>です。そして、この作品に描かれているのは、あれが欲しいのにお母ちゃんがそれを買ってくれないんだ、と駄々をこねている幼児のそれと似ている。つまリ、自分の<エモーション>をそのまま描くというのは、結局、自己愛でしかないということです。愚痴を書き列ねている日記というものが、読むのにいかに醜いかということだ。場合によっては、それに対して嫌悪さえもが催され得る。山野の映画というのは映像的<イメージ>に即した作品ではなく、どちらかといえば文学的要素の強い作品だ。ここでは映画的でない云々というのは置いておくとして、この作品でなされなければならなかったことはそれは単なる<エモーション>から脱するということだけども、そのために彼は比喩、中でも<メタファー(隠喩)metaphor>という形を取らなければならなかった。まるで愚痴のような告白ではなくて、俺はこうなんだ!と叫ぶんじゃなくて、冷静にそれの持つエッセンス・<本質>を全く別の新たな対象物に移し替え、直接伝えることが必要だった。ここにおいて、ものを見極める、つまり、投げ掛けられた石がどういったものかを見極める、そういった知性というものが自ずと要求されてくる。


今や映画には<イメージ>がない

 現在、映像作品といわれる映画が<センス>や<壮大な見せ物>、あるいは<エモーション>の表現である傾向が強いことに僕は懸念を感じずにはいられない。それはいうまでもなく、映画が同時代的な一過性のもの、あるいは、代償的なもの、そしてさらには、自己満足でしかないということを意味するからです。「映画を創ろうとするものは、既成の映画を多く観る必要はない。特に現在創られているものは観ない方がよい」、それは現在造られている映画作品の9割以上がそういった下らないものでしかなく、それに毒され続けながらも見ていくということをいかに回避しなければならないかということです。
 おそらく真に作品を創るためには、映画ほど商業的でない、映画以外の映像による芸術、絵画・写真等の作品を観賞することに頼らなければならないでしょう。それら作品から感受性と、本質をつかむ知性を養い、毅然(きぜん)として自分自身の<イメージ>をとらえていくことです。つまり、今や「映画を創ろうとするものは、まず何よりも、同じ視覚芸術である絵画・写真などに、慣れ親しむ」しか、映画を創る方法は残されていないのです。

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2012.09.07

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(8)

 映画を取り巻く状況って、随分と変わってきたのだろうか。少し前にクローズアップ現代で映画の上映システムがデジタル化されて、フィルムがなくなりつつある、というのが紹介されていた(書き起こしはこちらのサイトで)。スクリーンに投影してしまえば、デジタルか否かは判らなくなる。最近の映画の多くはビデオ撮りだし。TVのドラマが面白くなくなったのはフィルム撮りでなくなったから、という気もする。時代劇は比較的頑張っていた筈である。

 まず、手間が違う。

 たぶんどうでもいいような、この「手間」というのが以外に重要なものなのかもしれないと思っていたりする。


8mm映画創造の方へ 映画を超えて
III 2つの印象(2) (IDE vol.40 1989:p98-99)



静かな映像

 では、"じんわりとした・心にしみわたる"といったものはどうなのか? いうまでもなく、ここでは自分のもの・自分のすでにもっているもの、として受け入れるということが起っている。たとえば、エリセの『ミツバチのささやき』(1973)のような作品で、そのような感覚を受けると思う。この作品なんて、物語らしい物語はない。ただあるのは、創り手の自だけです。だから僕らは、否応なく創り手の目の中に引きずり込まれていく。また、この作品で驚かされるのは、15年以上前に創られたものだというのに古さを全く感じさせないことです。それは、<センス>というものが結局は視点の置き方のバリエーションを問題にしていて、無限の中から1つを選びだすという行為を行なっているのに比べて、この作品で見られるような創り手の目というのはユニーク・唯一的であり、その結果、普遍的なものになるからです。タルコフスキーの一連の作晶もまたそうです。
 このような作品では面白いことが起こる。タルコフスキーの『ノスタルジア』(1983)なんだけども、この作品では、実にさまざまなトリック・技巧が懲らされている。他の映画でそれが用いられていればあっと思わされるようなものが多くあるけども、この作品では決してびっくりしたりはしない。ただそれによって表現されているものがそのまま僕らの心のなかに静かに浸透してくるだけだ。だから、全くといっていいくほど技巧というものが気にならない。自然そのものでしかない。タルコフスキーは、それを見せ付けるためにではなく、空気のような雰囲気として醸し出すためにのみ用いているからだ。話によるとこの作品のオープニングの草原(?)の霧でさえ、スモークを焚いて作リ上げたものだという。
 ここで行なわれているのは、あくまでも作家と観客の静かな<エモーション(感情)>の共有、つまり、共感だ。またそれはあまりにも静かで、鮮明なことから<アニマ(息吹)anima>をみるといってもいい。こういった静かな感情に比べて、激しい劇的な感情というのはかなり形式化された操作によって引き起こされ得るものだ。たとえば頻繁に見られるが「悲しみ」という感情。これは、誰かを、特に主役格を殺すことによって、いとも簡単に観客に与えることができるだろう。だから「悲しみ」というのは腐るほどそこいらに転がっている。激しい単純な感情を与えることはたやすいけども、実際の体験から受けるような、ほのかで微妙な、あの<エモーション>というものを他人に与えることは至難を極める。エリセやタルコフスキーは見事にそれを成し遂げているのだ。またそういった<エモーション>は普通体験を通してしか得られない。だから、観客の僕らがそれを共有するというのは、僕らがひとつの疑似体験、作家に対する追体験をしたということになるだろう。したがって先程の"面白い・興味を注がれる"という感じのものが感覚的で一時的に新鮮でしかないのに比べて、“じんわりとした・心にしみわたる"的なものは体験そのものであり、いつまでたっても、また、いつの時代になっても、誰にとっても新鮮なのです。


スペクタクルとSFX

 映画の醍醐味といわれる<スペクタクル(壮大な見せ物)spectacle>もある意味では前者の類に入るだろう。<壮大な見せ物>というのは、非日常的なもので、だからこそ普通ならば一生かかっても見られない、そんな光景を目の前に再現することに価値があるわけです。ここで注目してほしいのはそれが客観的事実・出来事の再現であるということです。いったんフィルムにそれを撮ってしまえばいとも簡単に誰にでも、何時でも見られる。しかし、本当は実際にそれを見ることができるのを望んでいる。結局<スペクタクル>の価値の多くは、現実の代用として見い出されているのです。また、スペクタクル的な様相を成していたとしても、後者的な要素、つまり<エモーション>が加わればスペクタクルとは感じない。それは少なくとも<壮大な見せ物>ではないからです。このことは『ノスタルジア』のラスト・シーンを思い浮べてみればよく分かると思います。
 一昔前のスペクタクルのブームに取って代って現われたのが、<SFX(特殊視覚効果)special effects>というものです。<SFX>というのは<スペクタクル>と一見異質のもののように見えるかもしれないけども、根本的なところにおいては同じものをみている。その違いというのはその視点的なものにあって、何を<壮大>と見なすかというところの違いにある。<スペクタクル>が見た目そのままのスケール(規模)的な壮大さを目指したなら、<SFX>はさしあたって、よりミクロ的なディテール(細部表現)に壮大さを見出だしたということになるでしょう。というのは、ディテールというのは、それに固執すればするほど無限の広がり、壮大さを持ってくるものなのだからです。したがってディテールとスケールというのは必ずしも無関係なものではない。いずれにせよ<SFX>が<スペクタクル>同様、今まで映画にはなかった、また日常においても見ることのできなかった<壮大な見せ物>というものを目指しているということには間違いないのです。

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