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2012.09.05

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(6)

 論文と云えば、大学へ行くと法学部にでも行かない限りは、絶対に書かされるのだが、1月の半ばには提出しなければならない卒論のテーマを冬休みが入る前まで考えてなくて、文系でありながら、研究室の資料室に2年年下(映画に命をかけてしまったので2年留年してしまった)の後輩とふたりで泊まり込んで書いた。論文は期限までには完成せず、提出先の学生部には表紙のみを提出し、後日、教授に本文を引き渡した。とっとと、学生に卒業して貰いたい教授には当たり前の手段のようだった。

 当然、論文は大した内容ではなかったのだが、"てにをは"をひとつだけ訂正しなければならないが、とにかく、日本語として読み易い文章だった、という評価を貰った。言語の専門家が判りやすいというのだから、そのあたりは立派なのだろう。学問的には認知科学の見地からの言語解析をやりたかったのだが、うちの2人のセンセはチベット歴史言語やら、日本・ハングル比較言語なんてのが専門だったから、哲学教室と合同でやった演習で取り扱ったソシュールを論文のテーマにするくらいが精々だった。


8mm映画創造の方へ 映画を超えて
II 非言語なる映像(2) (IDE vol.40 1989:p94-96)



言語を映像に置き換える<モンタージュ理論>

 再び<モンタージュ理論>にもどろう。僕が<モンタージュ理論>に対して懸念を持ったというは、その方法に著しくこの言語的な<コード>・意味作用を必要とするする傾向があるからだ。
 まず<モンタージュ理論>というのは、言語でいう<文法>から入っている。もっとも、言語の<文法>体系とは異質な規則のではある。言語での<文法>というのは、主に<パロール>と<バロール>の係結び、つまりセンテンスでのお互い掛け離れた<パロール>がどの<パロール>と関わるかという、関わりを制約する性質が強く、それが語順なりとなって現われる。それに対して、連続的に知覚される映像というのは決定的なセンテンスを持たず、その直接隣接するくショット>どうしの結合性にしか制約を行なえない。だから<モンタージュ理論>による<文法>というのは、<ショット>の直接結合規則だともいえる。この場合、各々の<ショット>、つまり言語でいう<バロール>がそれを遵奉しなければそれ自体の持つ意味はともかく、さらには全体的に混乱を起こし何らの意味もなさなくなることもある、ということにおいてはまったく同じである。
 たとえば、<対照>のモンタージュというものがある。これは、あるものの性質を強調して見せるために、それと相対する性質のものを引き合いに出すというものだ。その具体的な例として、男の貧乏さを印象深く強調するために、次の<ショット>に豪華な衣装を施した富豪を持ってくる、というのが挙げられるだろう。つまりこのように、<モンタージュ理論>というのは、何かを示すためにまず、<ショット>と<ショット>の結合に<対照的な>という制約をおこない、同時に、2つのそれぞれの<ショット>が結合に値するための一義的な意味合い<貧困>と<裕福>を持っているということを条件立てている。
 言語そのものにおていも、その<パロール>があまりにも多義的であってはならない。-意味するもの-があまりの多さの-意味されたもの-を持つようになれば、それは自ずと-意味するもの-として機能しなくなるからだ。-意味するもの-と-意味されるものは、一対一の対になるのがもっとも好ましい。言語と同様、<モンタージュ理論>でも、その<ショット>の持つ意味というものは、単純化され、多くのことを含まないということが自ずと要望されてくる。
 <モンタージュ理論>というのは、この<コード>性に映画の重要性、映画の映画たるゆえんを見出だす傾向がある。しかし、この<コード>というものはあくまでも、言語的なアプローチによるものである。したがって、<モンタージュ理論>というのは、言語を映像に置き換えようとする単なる形式主義的技術論理でしかなく、必ずしも映像そのものの持つ、持ち味を対象としているのではない。


象徴的映像

 これらのことは同様に、僕たちの間で「シュールな」といわれがちな表現においても多く見られることだろう。もっともこの"シュール"という言い方には疑問を覚える。これは本来、絵画などで言われる「抽象的」に値するものである。"シュール"というのはおそらく<シュールレアル(超現実的な)surreal>の略で、映画の映像は、現実から切り取られたものという前提で、「抽象的」なものは現実に存在しない、ということから用いられているのだろうと思う。これは、あくまでも、<シュールレアリスム(超現実主義)surrealisme>とは異なっている。この主義は、「自動書記などによって理性を介せず表現したものに真実がある」としたもので、1924年にフランスで起ったものだ。撲らのいう「シュール」的作品において、事実上<象徴>という形をとっているものが多い。
 身近な例として、内田の撮った『STREET』のワンシーンを挙げてみようと思う。
 女の子と別れた男が、夢を見るくだりだ。一本道、男とその女の子が歩いている。突然駆け出す女の子。追っ按ける男。ようやく追い付き、女の子の肩に手をやる。が、いつのまにか、誰かわからぬむさくるしい男に変わっている。これは他愛のない<象徴>である。女の子が逃げるというのは、自分の手から難れたということであり、追い付くと、そこにいるのは別の男だったというのは、追い掛けても追い掛けても彼女自身には追い付くことができないということを図式的に示している。これなどは、単なる謎解きの類いの<象徴>で、「謎」を字に書くがごとく、言葉を映像に置き換え、迷わしているのにすぎない。
 「シュールな」表現においては、このような<象徴>が頻繁に見られる。残念ながらデビッド・リンチ監督の『イレイザーヘッド』(1977)でさえも大きな意味(全編を通しての)では同様なことが言えるだろう。
 いかにも<象徴>的なという表現といわないまでも、これらのことは多く見られる。たとえば、映画においてよく現われる「灰皿に盛られたタバコの吸い殼」などがその具体な例だ。これは、タバコを吸っている人間がその場に長時間いたことを端的に示している。


見失われがちな視覚的印象

 なぜこれらのこと、「映像の言語への組み替え」が起るのかといえば、ものを考えるという場合に限らず、ものを感じるという場合においても、それをすぐに言語に置き換えるという行為を僕らは普段行なっているからだ。それは、感じたことを感じたままでは放置できず認識というものに組み込んでしまうことによる。何かを心の中に留めておくというのに、言語という器は非常に便利なのである。ただ、時たま経験する強烈な生々しい感覚的体験だけが、それを純粋な感覚として保存されるのみだ。たとえば、夢のように。眠っている間に見る夢は、意識してそれを見ることができないというだけ感覚的だ。フロイドの言うようにそれは何かの象徴かもしれないが、それよりもその夢を実際に見る僕らにとっては、夢を1つの感覚的事実として受け入れることの方がはるかに大きい。そしてその結果夢を語り得ないもどかしさを僕らは覚えずにはいられない。
 映像を映像として表現するためには、映像で観るということを常に行なわなくてはならないだろう。自分の目の前に広がっている映像をあくまでも感覚的に直視し、受け入れつづけること。
 映画の理論は今日でも発展し続けている。<モンタージュ理論>のような、映画の表現性を問題とする「映画学」から、さらに映像そのものの特性に対象を移した「映像学」として、映画が論じられ続けている。このことは、岡田青著『映画学から映像学へ 戦後映画理論の系譜』に詳しい。
 しかし、残念なことに、それらは、コミュニケーションとしての映像、意味するものとしての映像として論じられるのみだ。いかにして、映像は意味し得るのか? いかにして、映像は読まれ得るのか? 何かの道具として、映像はみられている。再び言うけれども、常に撲たちの目の前に映像<イメージ>は常に広がっている。これは一体何なのだろう? また、この僕らの視覚を通しての映像<イメージ>は道具となり得るのだろうか? しかし、記号としての映像でなく、表裏一体の現実・真実(事実ではない)としての映像<イメージ>があるということも忘れてはならない。そして、この映像<イメージ>に対して、その内容を僕らは何も論じることはできはしないのだ。ただただ無力である。つまりこれらの理論は、論じ上げ手中に治めることのできない映嫁<イメージ>を信じないもの、認めたくないもののために存在している。そしてさらに彼らは、僕らの持つ人間的なものまでも排除してしまおうとしている。

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