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2012.09.04

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(5)

 何事も突き詰めて考えようとすると難しいなと思う。芸術論とかやろうとすると、深みがあまりにも深すぎて、素人が考えるべきものではないような気がする。

 20数年ぶりに読み直して、論の浅いこと、拙いこと。そして、文章のスタイルが今もそんなに変らないことにムカつく。


8mm映画創造の方へ 映画を超えて
II 非言語なる映像(1) (IDE vol.40 1989:p92-94)


II 非言語なる映像


<モンタージュ理論>という教科書

 映画を初めて創る場合、たいていの人は、映画の撮り方なるテキストを見るだろうと思う。その手のガイドブックを買い込み、映画の作り方を研究する。それは然るべきことだ。よっぽど高校とかでフィルムを回していないかぎり、いくら先輩の映画製作に就いたとしても、カメラのこと、フイルムのこと、編集のこと、その他製作の段取リを自分の手で、やることとして具体的に実感として何も把握できていないからだ。実際、僕もそうして来た。
 困ったことに、この手の本は、御丁寧に章を割いて、映画の製作方法という他に「映画の理論」なんて言うものまでも解説してくれている。また、そういう場合に限って扱われる理論というのが<モンタージュ理論>という奴なのだ。正直なところ、この理諭に対して、僕は懸念を抱いている。この<モンタージュ理論>というものをもとにして、今までいってきた映画の独自性について、もう一度考えていこうと思う。


<モンタージュ理論>とは

 <モンタージュ理論>の概略を言うと次のようになるだろう。
 映画をというものは、一つの<ショットshot>(切れ目なしに連続的に撮影されたフィルムの一断片。簡単に言えば、監督の「スタート」の掛け声から、「ストップ」の掛け声までの間に撮られた一つの映像のこと)で創られるということはまずなくて、複数の<ショット>からでできている。言い換えれば、映画というのは、<ショット>を<モンタージュ(編集)montarge>(撮ったフィルムをくっつけ合わせること)することによってようやくできているといえる。
 モンタージュを行なうということは、アングルとかサイズの違う異質な<ショツト>2つをつなげることであり(そもそも同質な<ショット>は分断されて撮られる必要は全くない)、しかもその組合せ方によってはその<ショット>に描かれている以外の意味がもたらされるというのだ。
 たとえば、何かを見ている婦人の<ショット>があるとしよう。その次に、愛らしい子供の<ショット>をモンタージュしたとする。すると、婦人はいかにも優しく子供を見ていたという印象を受ける。しかしまた、子供の<ショット>の代わりに、テープルに並べられた豪華な料理の<ショット>を持ってくると、婦人はいかにもそれを心待ちにしているという感じを受ける。次にくる<ショット>によって、その<ショット>はいかに意味が変わってくることか。これはあくまでも1つの例だけども、モンタージュすることによって絵自体にはない数々の新たな意味をもたらすことができるというのだ。つまり、映画は、<モンタージュ>による芸術である。それが、一般的な<モンタージュ理論>というやつだ。
 この<モンタージュ理論>というのは、20年代後半ソ連で、クレショフや、エイゼンシュティンによって唱えられた。彼らがそのような<モンタージュ理論>を唱えたのは、サイレント映画に一種もどかしさを覚えたからに違いない。事実、映画が<トーキーtalkie(←talking picture)>になったのは1926年で、作品としては翌年『ジャズ・シンガー』がアメリカで音のでる映画として初めてスクリーンに登場した。このトーキーの出現と、<モシタージュ理論>がほぼ同時期に現われたというのは決して偶然ではないだろう。この二つの差というのは、おそ1のらく科学技術の差におけるものだ。前にも言ったように、言葉があればより適確に言えることも、映像だけでは言い表わしにくい。だから、サイレント映画でも、少しでも具体的にこれこれと言い表わせる方法を<モンタージュ理論>に求めたのだ。
 聞いたところによると、<モンタージュ理論>というものは非常に良いものじゃないかという印象を受けるかもしれない。映画は映像だというが、<モンタージュ理論>というのは映像に秘められた力を扱ったものじゃないか、どこが悪い。ぞんな風に思われるかもしれない。以前エイゼンシュティンの『戦艦ポチョムキン』(1925)という<モンタージュ理論>の権化とも言われる作品の一部(「オデッサの階段」という有名なシーンをたった5分程度だけど)を見たことがあるのだけれども、恐いぐらいにぎくしゃくした押さえ付けられるような印象を受けた。たしかに、ここではこれこれと言っているというのがわかる。しかし、なんというか、説明的でありすぎるのだ。ある種、言葉以上にそれは具体的で、僕にそれを押付けてくるものだった!


言葉の溝造

 ここでちょつと言語学的なことを勉強してもらおうと思う。僕らは普段、<パロールparole>、つまリ、語・単語というものを使って、コミュニケーション・伝達をはかっている。この行為、および、その能力を<ランガージュlangage>と呼ぶ。この<パロール>は記号的な様相を見せる。つまり、<バロール>の構造は次のようになっているわけだ。
 <パロール>はある音を持っている。たとえば、「イシ」のように。これは、あるものを-意味するもの<シニフィアンsingnifiant>-といえる。つまり、-意味するもの-としての「イシ」というの音の背後には、「地面などに転がった固い小物体」という-意味されたもの<シニフィエsignifie>-がある。したがって、これらの<パロール>というのは、<シーニュ(記号)signe>【自ら別の現象を告知したり告げたりするもの】的だといえるだろう。
 また<象徴symble>というものがあるけども、これもまた<パロール>の-意味するもの-と-意味されたもの-の意味の関係がよリ構造化されたというだけであって、全くその関係が崩されたというものではない。たとえば、「共産主義」というものがある。それに基づく社会は革命を起こさなければ成立しない。革命ではかならず流血がある。したがって、共産主義は血の色「赤」で象徴される。これは、

 共産主義→革命 革命→流血 流血→赤 / 共産主義→赤

という表層での移し替えが見られるように、意味においては全く無関係でなく、連想的な意味関連を持っている。また、「赤」という物体を持たない抽象的なものに差し替えられた分、「共産主義」というもののエッセンス・本質が激しく直観的に言い表わされるという結果になる。<象徴>化するというのは、本質のみを抽出し、-意味するもの-と-意味されたもの-の結合を強くするということである。
 また、一個一個の<パロール>に関しては分節的・断片的でしかなく、これだけでは複雑な意味は持ち得ない。「イシ」だけであれば、「地面に転がっている固い小物体」だけしか言い表わせない。よリ多くのことを言うためには、これらの<パロール>をさらに組み合わせる必要がある。日本語の例でいうと、「イシ」と、主語を示す格助詞「ガ」、物が存在することを示す動詞「アル」を組合せて、「イシ・ガ・アル」となり、「石が存在している」ことをようやく示すことになる。
 その時、<パロール>を並べる秩序・規則というものが必要となってくる。それが大きな意味での<文法gramer>である。<ランガージュ>がある言語を成立させるためには、<バロール>と、それを並べることのできる<文法>が必要だ。また、それら2つの総体を<コードcode>という。つまり、この<コード>というのが、言語的意味作用を担うのである。

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