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2012.09.02

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(3)

 この文章を書くにあたって意識したのは、講談社新書あたりのやや軽めの新書。軽く情報を取り入れるのには、非常に好ましいスタイルだと思う。


8mm映画創造の方へ 映画を超えて
I 映画の始源「映像」へ(2) (IDE vol.40 1989:p89-91)



暖昧な言葉

 言葉で何かを語るというのには、思った以上に半端なところがあるんです。僕らは、他人に語る、つまり話すわけですが、こういう場合、常にある何かについて語しているわけですよね。つまり、その事柄について感じたことなり、考えたことなり、言葉でもって語っている。僕は、言語学というものを専攻しているんだけども、言葉というものについて深く知れば知るほど、言葉に対して不信を感じるよになった。つまり、言葉っていうのは普通思われている以上に暖昧なんです。
 たとえば、誰かが"これは辛い"というとする。「辛い」というのは味覚の表現なんだけども、塩をなめても、また、唐辛子を食べても、なぜか同じ「辛い」。塩と、醤油とでは少しは近い辛さだという気はするけども、でもその辛さと、唐辛子や、タバスコの辛さとは全く違うような気がする。さらにもっと厳しくいえぱ、塩も、唐辛子も、醤油も、タバスコも、全く味は違う。なのに僕らはこの味全部を「辛い」といわなくっちゃいけない。
 つまり、言葉は、これはこれだ、という完全な具体性を必ずしも持っていないわけです。あくまでも、広範囲のものを総括したもので暖昧なものでしかない。言葉で語るということは、必ずしも普段僕らの思っているほど完璧じゃない。取り合えず、僕らはこれまでの自分の経験から得たその言葉の持っている意味と、今話している彼が彼自身の経験で得た意味との共通点というのを拠り所にして言葉によるコミュニケーションをはかっている。だから使われている言葉の意味の重みというのは皆違うわけ。こうやって実際に僕は話をしてるんだけども、僕の言おうとしていることは残念ながら何割かしか伝わっていないだろう。それは、これが言葉を使っているからです。まずは言葉は完璧という幻にだまされてはダメです。


いつも観ている映像=眼=

 そこで、映像は具体的に何も語ってくれない、というわけですが、まァ、"語る"っていうのには抵抗を感じるから、"表現"といいなおすけど、映像は具体的に何も表現してくれない。これは、こうこうでこうなんだ、とはいってくれない。本当にそうなんだろうか? そこをまず考えてみようと思います。
 "映像"っていうと何か特殊なことのように感じるけども、僕らには眼という視覚器官があって、常に何かを見ている。見たもの、それはすでに映像じゃないかな。事実、僕らの眼にはレンズの役目をはたす水晶体っていうのがあって、それを通して光が入ってきて、スクリーンである網膜に像がつくられている。その像を僕らは感じている、つまり観ている。これしか観ていない。つまり、僕らは常に映像というものを見ているわけです。変な言い方だけど、僕らは常に映像を通しで何かを見ている。もっとも、それは映画じゃないけども。
 この映像、たまに変なことを起こす。たとえば、あたり前の自分の家なんだけども、合宿とか、旅行とか、なんかで長期間空けていて、久し振りに帰ってきたとする。何だか異様な感じがする。自分の家じゃないみたいな、しっくりしない不思議な感じに辺りが映ったりする。また親しい人間と、そうでない人間とでは見え方が違う。僕なんかは、親しいよく知っている人間は小さく、そうでない人間は少し大きく見えたりする。尊敬しているしていない、ということに関してでは、それとまったく逆のことが起こる。そんなことってあるでしょう。
 いつもすぺてが同じに見えるということはないはずだ。おそらく、精神的な心理的な後ろ盾があって、そんな風に感じるんだろうけど、でも、こういう場合の映像というは、きわめて具体的なもので嘘隠しのないものじゃないだろうか。実際、そのように感じた、見たんだから。そういうのって、否定のしようのない、具体的なものそのものという気がする。これは、何かを語っているということだ。こういうのは、映像ででしか、人に説明することはできない。
 つまり、映像っていうのは、概念とか、思想など普段言葉による表現を必要とするものを直按表現するのには、そもそも向いていないということだ。それらに関しては、おそらくやはり、言葉を用いるべきだろう。映像そのものは別の何かを具体的には表現してくれない。ただ僕らの目に変わって、感覚的なもの、その場に漂っている空気的なもの、言葉には表現できないものを表現してくれるだけだ。僕らが普段言葉を使って、すべての事柄に渡って表そうとしているのは便宜上止むを得ないことで、無理をしているというだけだ。味なんていうのも、実際それを嘗めてみて、やっとどんなものかわかるものだ。映画のほかさまざまな芸術形式があるけども、それらはお互い代用となることは決してなくて、それ自身侵しがたい領域をそれぞれ持っている。映画というものも、文学や演劇を手助けるためでなく、映像という主力をつかさどるためにある。これが映画の存在する理由だ。
 そんなわけで、映像、つまり映画は、あくまでも視覚的という感覚的なもだということになる。

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