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2012.09.01

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(2)

 この機関誌の原稿はワープロ打ち。まだPCが一般的ではなく、ワープロ専用機がようやく一般的になり始めた頃だ。この原稿掲載の機関誌の編集はすでに後輩の代になっていたのだけど、あたしが編集した2冊のうちの2冊目から初めての一部ワープロ打ち、かつ、コピーによる印刷とした。それまではボールペン原紙に手書きの原稿を作り、学生部の輪転機を借りて印刷を行っていた。セッティングに失敗すると原稿が丸々一枚ダメになるし、インクまみれになる作業で、ページ数が多いと手強いものだった。

 費用は高くなるが、コピー機を使っての印刷は非常に手間が省けて、それまでの倍の100ページ超えの機関誌を製作することも容易くなった。それまで部員には無償で配布していたものを更に価値あるものとするため、希望者のみの実費有償配布とし、企画にもこれまで以上力を入れ、こだわったものにした。ちょっとした時代の変換点を作ったように思っている。


8mm映画創造の方へ 映画を超えて
I 映画の始源「映像」へ(1) (IDE vol.40 1989:p88-89)


I 映画の始源「映像」へ


映画創造の始まり

 「僕は映画を創りたいんだけども、それを人に観せるために創るんじゃない。先ず自分がそれを観たいから創るんだ」
 僕は一回生の頃からそういってて、よく喧嘩になった。観せる必要のない映画をなぜ撮らなきゃいけないんだ、たいていの奴はそういった。もっとも僕自身撮った映面を人にまったく見せたくないってわけじゃないんだけども、そんなことよりも、もしそれが本当に完璧にできたなら誰にも観せず、そのまま捨てちゃっても、それでもいいんじゃないかという感じがあった。ずいぶん変に思われるかもしれない。また、たぶん自己満足で映画を撮っているともいわれるかもしれない。表面的にはそう取れるかもしれないけれと、そういうのとはちょっと違う。
 ジョージ・ルーカスは、『スター・ウォーズ』(1977)で監督業から手を引いた。なぜか知らないけども。それからは、製作総指揮というよくわけのわからない役割でもって、自らメガホンとることなく、観客というものに近い立場から「自分が観たいような映画」を監督に撮らせることにしたらしい。
 「自分が観たい映画」という点では、ルーカスと僕は共通してるけれと、根本的なところは全く違う。ルーカスは、観たいからほかの誰かにつくってもらう、といい、僕は、観たいからこそ自分で創らなきゃいけない、という。この違いというのは、自分の観たい映画が撮られるのに第三者が関わってもよいかよくないか、という大きなものだ。
 僕はまた、こういうこともいった。
 「(僕が映画を創りたいのは)自分自身の頭の中にある世界をフィルムの上に、誰もが見られるように具現化したいからである。映画製作は少なからず天地創造の感がある」


映像の発見

 今まで映画いうものを十数年観てきて、正直なところ飽きていた。たぶん数千観ているだろうと思うけど、お話としての映画っていうのは、いってしまえばどれもこれも同じで、目新しいもの全くない。全くない、全く。目新しければ、いい、とまでは思わないけれど、目新しいものさえもない。どいつもこいつも男と女が出てきて、なんたらかんたら… そういうことはすでに数年前から感じていた。
 全部ある種のバターンを踏んでいる。さらに簡単にいってしまえば、起承転結、チャンチャン。それが僕の観て来た映画のすべてだ。そういったストーリー・テラーとしての映画には全く興味なくなってしまったんだけれど、なぜか映画を観続けていた。やはり映画が好きなわけ。不思議なことにそれでも、観たくて観たくて仕方ない。映画のお話は詰まらないのに映画を観なくっちやいけない。苦痛だよね、こんなの。でも観ている。
 そうしているうちにあることに気が付いた。映画ってのは映像なんだって。僕が映画を観ているのは、物語のためじゃなくって映像のためなんだって。映像があるから映画なんだって、気がついた。これは僕にとって大きな発見だった。映画は、映像だってことを皆知っているだろうか。知っていないとはいわないけども、実感としてそういうのあるだろか。僕には疑問だ。
 ちょっと簡単な実験をしてみようと思う。こういうのを想像してみてください。ます、映画館に映画を観に行く。途中まで観てたんだけども、映写機が故障してしまったみたい。音声が出ない。でも、画は映っている。スケリーンの中では人間が何かしている。これは映画じゃない? さて、どうだろう。これは、映画だ、やっばり。少なくとも、映画の端くれのような気はする。今度は、ランプが切れた。真っ暗やみに、音だけが響いてる。これは、映画? どうだろう。とても映画のような気はしない。
 こんどは、映画館じゃない。街に買物に行って、目の前に夕映えの街角が広がっている。とても美しい。そして、ふと「まるで、映画に出てくるシーンのようだね」なんていってしまう。時には、「映画のような話」、なんて言い方するけども、でも別に、「恋愛小説のような話」っていったって差し支えない。映画にはどちらかといえば映像的なものがつきまとっている。それは、そもそもどうして映画が生まれてきたのかというと、止まった絵・写真には物足リなくてそれを動かそうとして、生まれて来たからだ。


映像は語るか?

 映画に映像って簡単にいっているけども、実はこれがずいぶん難しい。映画は映像という場含、映像は単に役者を映すだけじゃなくなる。じゃ、どういう風なのかというと、役者の演技台詞を説明(再現)するだけじゃなくて、あくまでも映像それ自体が何かでなければならないことになる。役者が写ってなくても映像は、映像だから。これは、音楽が歌詞がなくっても、音楽であることには違いないっていうことだ。
 今の映画っていうのは、役者中心で、言い換えれば、ステージの上で演技している役者を適当に撮っていりゃ、それはそれで映画として成り立つという感じがある。とはいっても、ロングとか、アップなんて、多少は考えていますけど。でも、実はそうでなくって、映画っていうのは、役者なんていたっていなくたっていい、映像だけで何かを表現することができればいいんじやないですか、映画は映像っていうからには。歌詞のない音楽を音楽じゃないっていうことは、間違っているように。また音楽は歌詞が素晴らしいんだ、といって、曲を取ってしまって歌詞だけにしたら、これは単なる詩の朗読になってしまう。
 役者は、台詞をいってくれるけども、映像ってのは意地の悪いことに具体的に何も語ってくれないじゃないか。役者がしてくれているように、僕の代わりに映像が何かを語ってくれるとでもいうのか。そういう言い方もできると思います。でも、映像っていうのはそんなもんじゃない。
 もっとも、この"語る"ということにも問題がある。映像は具体的に何も語ってくれないっていったばかりだけど、言葉で語るっていうのは、案は、少しも具体的じゃない。ここで、語るっていうこと、つまり役者の使う言葉というものについて考えてみましょう。

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