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2012.09.09

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(10)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
IV 光と影を写し撮るフィルム (IDE vol.40 1989:p101-102)


IV 光と影を写し撮るフィルム

映画は<光>だ

 映像における<イメージ>について具体的に示しておこうと思う。
 僕が少なくとも映画的に素晴らしいと思った作品、A・タルコフスキーの一連の作品(とりわけ、『鏡』以降)、『ミツバチのささやき』、『シャイニング』(スタンリー・キューブリック'80)、『四季・ユートピアノ』(監督・製作年不詳、NHK製作)、『ディーバ』(ジャン・ジャック・ベネックス '81)、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(ジム・ジャームッシュ '83)、『イレイザー・ヘッド』、『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』(ニキータ・ミハルコフ '76)等の共通点を挙げるとするならば、これらはすべて<光>を巧みに使った作品であるということです。僕はそれらの持つ<光>のくイメージ>というのを決して忘れることができない。
 <光>というのはフィルムに積極的に参加してくる。いや、闇違わないで欲しい。フィルムに撮るということ、また、スクリーンに映すということ、それ自体<光>との戯れなのだから。フィルムに撮るということは、ある事物を写すというのではなく、そこにある<光>をフィルムに写し撮ることであリ、またスクリーンに映すということはフィルムに刻みこまれた<光>を映写機の<光>によって再現することだ。フィルムがなかった頃、人は感じ取った<光>というものを必死で手中に収めようとした。ミレーの『落穂拾い』『晩鐘』『種まく人』を観るとそれは一目瞭然だろう。
 フィルムとビデオでは、メディアが違うと前にいったけども、まずこの<光>という点で端的に違いが出てくる。ビデオでは<光>を信号にして磁気に記録するため、直接<光>を拾うフィルムにみられる<光>のまろやかさというものはない。あくまでも刺々しくストレートにそれが記録されるだけだ。<光>に関してやや無機質がかったビデオという映像メディアは、その特質からは造形とその動きを捉えるというのに向いている。


<ムード>をつくる<光>

 スクリーンに映像として現われた<光>は瞬時にして印象付けられる。確かにその映像の中には、読み取られるべき造形、人物やその背景があるかもしれない。だけども見られるのは映像全体であって、しかもそれ全体を覆っている<光>というものがまず否応なく捉えられてしまうわけです。そしてその<光>によって、その映像の<ムード(雰囲気・気分)>は決定される。映像における<光>というのは、演奏における楽器の音色以上の要素を持っている。音色に注意されず楽器が選ばれ、そうして行なわれる演奏というのはまったくズサンで聴けたものではないけども、映像ではそれ以上なのだ。また、映像における<ムード>こそ、映像に描かれ得るくイメージ>の一つに他ならない。
 フィルムを回すということは、第一に<イメージ>として<光>を作り上げ、第二にしかもなお自然な<光>として、それを写し取るということです。『グッドモーニング・バビロン!』(バオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ、1978)には、「映画は光です。電球ではなくて自然の太陽の光が顔を照らすとき、観客も一緒に光を感じなくてはなりません」という素晴らしい台詞があるけども、この作品自体残念なことにその点においてまだまた不満の多いものだった。<光>を生み出すことは難しいが、しかし、これが成し遂げられたとするとその映像は95%は完成されたといっても過言ではないでしょう。
 フィルムにおいて<光>を生み出す。これはいうまでもなく、一つの世界を創りあげることです。
 実写映画とアニメーション映画との違いを挙げると、それは<光>ということに尽きる。実写映画では撮影現場で照明によリ創り上げた<光>をそのまま利用することができるけども、アニメーション映画では、画を描く際一枚一枚意識して<光>を与えなければならず、それは困難を極める。とりわけ日本でのセル画を用い、大量生産的につくられているような長編アニメーションでは積極的にこの<光>、つまり<ムード>を無視しようとしている。その結果生まれてくるのは、一見描写豊かに見えて、実はフラット(平ら)な単調で薄っぺらな画ばかりだ。だから、物語ですべてを片付けなければならない。そういった意味で、宮崎駿がいかに優れていようが、やはり彼の作品は精密に動く漫画のレベルでしかなく、直観的に訴えかけてくるものは何もない。彼の投げ掛けようとするものは、キャラクターやその動き、そしてドラマというオブラートに包まれており、それを観る僕は常に焦れったさを覚える。ここに僕が日本のアニメーションのやり方を嫌う理由がある。しかし、ソ連の切り絵アニメーション作家、ユーリ・ノルシュティンの『話の話』(1979)などになると話は異なってくる。そして、彼の緻密で詩情あふれる作品は、1年間にほんの10分ぶんだけ、創られる。

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