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2012.09.11

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(12)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
V 永遠なるイメージへ(2) (IDE vol.40 1989:p104-105)



例え話と<イメージ>

 とはいっても<イメージ>からによってではなくて、たとえば筋道を立ててそれを説いていくという理性によって概念を記述したのものからでも、その<本質>を知ることができるというかもしれない。でも、それは明らかに闇違っている。たとえば、「椅子」であれば、「人が座るためのもの」と<本質>をいいあてることができるかもしれない。だけど「椅子」のように人為的に作り上げたものでない、自然界のもの、自然発生的なものは、<イメージ>でないと<本質>は語り得ないのです。
 クイズ、さてこれは何でしょう。『岩よリ小さくて、砂より大きい鉱物質のかたまり。また、広く、岩石、鉱物を総称する』。そして『まるい形。また、まるい形をしたもの』は? これは国語辞典で引いた「石」と「丸」です。国語辞典というのは、それがどんなものであるのか知らない人が言葉という概念からそれを知るために用いるというものだけども、これで「石」や「丸」がどういったものだか分かりますか? 「丸」なんてのは、そのもの「まるい形」とあって、ほんとわけわからない。わかりきったこというなって言いたくなる。「石」なんかも知ってれば、これは確かに「石」なんだけど、知らなきゃ、さっぱりだ。僕がこの2つを知らない人に説明するんだったら、「石」なら『道端に転がっている小さくて堅いやつ』、「丸」なら『お月さまの形』とかいうだろう。またこの方が実際ずいぶんとわかりよいはずだ。でもこれはまさに僕の持っている「石」や「丸」に対する<イメージ>に他ならない。これはまさに、そのもの、<本質>を現わすためには<イメージ>を用いるしかないってことを示している。
 このことは、この文章でもいえることだ。僕が今説明しようとしている<イメージ>というのは自然発生的なものだ。また、この<イメージ>に関しての統一全体的なもの、<本質>的なものを携えたイメージ自体は、僕の頭のなかに存在している。でも、悔しいことにそれをそのまま全体として見せるすべを、僕は知らない。だから、せめて僕にでもできる、論文風に体系立てて、部分的に分割し、それを一つ一つ明らかにしながら、再び全体を明らかなものとして現わす、そういったことを試みている。そして、全体では無理にしろ、断片的な部分ではより<本質>に近づくために、そのままある言葉でストレートに言い切ってしまうというのではなくて、少しでも<本質>を携えた<イメージ>的な比喩に頼ろうとしている。この文章に例え話の多い理由だ。
 ちょっと脱線するけども、物事ををらう場合、「形から入れ」、なんてよくいう。剣道を習ったことのある人は知ってるだろうけど、最初はイヤというほど形ばかりをやらされる。でもそうやっているうちに、何だかよくわからないけども不思議と何かが見えてくる。剣道の心っていうか、そんな感じのものだ。また、お辞儀というのも同じ。尊敬なんてまったくないのに、いつも形式的にお辞儀をしていると、いつのまにか尊敬の念が呼び覚まされているのに気づく。つまり、こういった剣道の形とか、お辞儀というのは、遥か昔から伝承されてきた、剣道の心や尊敬の念をもたらすための理想的な形だ。この形というのは他ならぬ、「剣遵の心」や「尊敬の念」の動作的<イメージ>というものだ。「形から入れ」とはよくいったものだ。


精神はイメージを選択する

 前に<イメージ>は湧いてくるものだと言ったけど、この湧いてくる<イメージ>、人によってはその質が全く違ってくる。このことにも注目しておく必要があるでしょう。
 また、言葉の問題になるんだけども、日本に自然界の氷、つまり、自然に固体化したH2Oの状態を示すものは幾つあるでしょう。ちょっと調べてみると、氷、流氷、氷柱(つらら)、樹氷、霧氷、雨氷、霰(あられ)、霜といったところで、その他いくつか残っているとしても十幾つだ。僕らは氷に関してこの十幾つに見分けている。だけど、エスキモーになると、この氷を示す言葉というのが何十という数にもなる。これはどういうことかというと、エスキモーというのは日本人に比べて、氷というものについてはるかに認識が深いということです。彼らは氷と生活しているようなもんだからそんな風になってしまったんだろうけど、この氷に関しては日本人よりはるかに多くのことを見極めているというのは事実だ。エスキモーのいう××という氷と○○という氷について僕らは普段判断がつかない。これは、僕らにはそれらが見えてないということなんです。つまり、氷のその状態の差ってのが。僕らほすでにその差のあることに対して自体、目をつむってしまっている。
 ここでいう差っていうのをいかに認識しているかというのが、いうまでもなく<イメージ>の質にかかわっている。<イメージ>は湧いてくる。でも、僕らが普段全く気づいていない××という氷とか○○という氷とかが<イメージ>として僕らに現われるかどうかということです。まず、現われることはないでしょう。氷に関して僕らに現われる<イメージ>といったら、やはり氷柱や樹氷でしかないのです。
 これらの事実は、<イメージ>がいかに彼の精神性に直接係わっているかということを如実に示しています。<イメージ>は彼の外から、無意識に湧いてくる。しかし、それはあくまでも彼の精神というフィルターを通してのものなのです。彼がより高い精神性、つまり、より高い見極める力を持っていたなら、無意識のうちにも間違いなく、より豊かなそしてより<本質>に近づいた<イメージ>のみが彼にもたらされることになるだろう。だから作家に精神性や知性が求められるのは必然的なのです。
 このようにいうと、<本質>や<イメージ>というのは彼によって創られたものじゃないかという感じがしてくる。そうじゃない。全てはすでに与えられているのだ。ここでただそれを見るということが必要なのだ。<イメージ>として、あるものとして、それをできるかぎり受け入れようとする気構えがなされていなくてはならない。もっと心を広げて。そして、見逃さずに。

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