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2012.09.07

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(8)

 映画を取り巻く状況って、随分と変わってきたのだろうか。少し前にクローズアップ現代で映画の上映システムがデジタル化されて、フィルムがなくなりつつある、というのが紹介されていた(書き起こしはこちらのサイトで)。スクリーンに投影してしまえば、デジタルか否かは判らなくなる。最近の映画の多くはビデオ撮りだし。TVのドラマが面白くなくなったのはフィルム撮りでなくなったから、という気もする。時代劇は比較的頑張っていた筈である。

 まず、手間が違う。

 たぶんどうでもいいような、この「手間」というのが以外に重要なものなのかもしれないと思っていたりする。


8mm映画創造の方へ 映画を超えて
III 2つの印象(2) (IDE vol.40 1989:p98-99)



静かな映像

 では、"じんわりとした・心にしみわたる"といったものはどうなのか? いうまでもなく、ここでは自分のもの・自分のすでにもっているもの、として受け入れるということが起っている。たとえば、エリセの『ミツバチのささやき』(1973)のような作品で、そのような感覚を受けると思う。この作品なんて、物語らしい物語はない。ただあるのは、創り手の自だけです。だから僕らは、否応なく創り手の目の中に引きずり込まれていく。また、この作品で驚かされるのは、15年以上前に創られたものだというのに古さを全く感じさせないことです。それは、<センス>というものが結局は視点の置き方のバリエーションを問題にしていて、無限の中から1つを選びだすという行為を行なっているのに比べて、この作品で見られるような創り手の目というのはユニーク・唯一的であり、その結果、普遍的なものになるからです。タルコフスキーの一連の作晶もまたそうです。
 このような作品では面白いことが起こる。タルコフスキーの『ノスタルジア』(1983)なんだけども、この作品では、実にさまざまなトリック・技巧が懲らされている。他の映画でそれが用いられていればあっと思わされるようなものが多くあるけども、この作品では決してびっくりしたりはしない。ただそれによって表現されているものがそのまま僕らの心のなかに静かに浸透してくるだけだ。だから、全くといっていいくほど技巧というものが気にならない。自然そのものでしかない。タルコフスキーは、それを見せ付けるためにではなく、空気のような雰囲気として醸し出すためにのみ用いているからだ。話によるとこの作品のオープニングの草原(?)の霧でさえ、スモークを焚いて作リ上げたものだという。
 ここで行なわれているのは、あくまでも作家と観客の静かな<エモーション(感情)>の共有、つまり、共感だ。またそれはあまりにも静かで、鮮明なことから<アニマ(息吹)anima>をみるといってもいい。こういった静かな感情に比べて、激しい劇的な感情というのはかなり形式化された操作によって引き起こされ得るものだ。たとえば頻繁に見られるが「悲しみ」という感情。これは、誰かを、特に主役格を殺すことによって、いとも簡単に観客に与えることができるだろう。だから「悲しみ」というのは腐るほどそこいらに転がっている。激しい単純な感情を与えることはたやすいけども、実際の体験から受けるような、ほのかで微妙な、あの<エモーション>というものを他人に与えることは至難を極める。エリセやタルコフスキーは見事にそれを成し遂げているのだ。またそういった<エモーション>は普通体験を通してしか得られない。だから、観客の僕らがそれを共有するというのは、僕らがひとつの疑似体験、作家に対する追体験をしたということになるだろう。したがって先程の"面白い・興味を注がれる"という感じのものが感覚的で一時的に新鮮でしかないのに比べて、“じんわりとした・心にしみわたる"的なものは体験そのものであり、いつまでたっても、また、いつの時代になっても、誰にとっても新鮮なのです。


スペクタクルとSFX

 映画の醍醐味といわれる<スペクタクル(壮大な見せ物)spectacle>もある意味では前者の類に入るだろう。<壮大な見せ物>というのは、非日常的なもので、だからこそ普通ならば一生かかっても見られない、そんな光景を目の前に再現することに価値があるわけです。ここで注目してほしいのはそれが客観的事実・出来事の再現であるということです。いったんフィルムにそれを撮ってしまえばいとも簡単に誰にでも、何時でも見られる。しかし、本当は実際にそれを見ることができるのを望んでいる。結局<スペクタクル>の価値の多くは、現実の代用として見い出されているのです。また、スペクタクル的な様相を成していたとしても、後者的な要素、つまり<エモーション>が加わればスペクタクルとは感じない。それは少なくとも<壮大な見せ物>ではないからです。このことは『ノスタルジア』のラスト・シーンを思い浮べてみればよく分かると思います。
 一昔前のスペクタクルのブームに取って代って現われたのが、<SFX(特殊視覚効果)special effects>というものです。<SFX>というのは<スペクタクル>と一見異質のもののように見えるかもしれないけども、根本的なところにおいては同じものをみている。その違いというのはその視点的なものにあって、何を<壮大>と見なすかというところの違いにある。<スペクタクル>が見た目そのままのスケール(規模)的な壮大さを目指したなら、<SFX>はさしあたって、よりミクロ的なディテール(細部表現)に壮大さを見出だしたということになるでしょう。というのは、ディテールというのは、それに固執すればするほど無限の広がり、壮大さを持ってくるものなのだからです。したがってディテールとスケールというのは必ずしも無関係なものではない。いずれにせよ<SFX>が<スペクタクル>同様、今まで映画にはなかった、また日常においても見ることのできなかった<壮大な見せ物>というものを目指しているということには間違いないのです。

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