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2012.09.10

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(11)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
V 永遠なるイメージへ(1) (IDE vol.40 1989:p102-104)


V 永遠なるイメージへ

そこにあるもの、<イメージ>と<生命>

 今までは<イメージ>というのはどういうものかということを中心に見てきたわけだけども、今度は、作品において僕の最重視する<イメージ>は僕らにとってどんなものか、<イメージVの意味というものを見ていきたいと思います。
 その前に、<イメージ>とはどういったものか、もう一度簡単に整理しておこう。
 <イメージ>とは何かの代わりでは決してない、紛れもない存在であるる。また同時に、何も意味してはいない。ただそこに、自分のなかに、あるものである。
 取り立てていっておきたいのは、<イメージ>というのは意識されて作られるものではない、ということだ。ケン・ラッセルのマーラーの伝記的映面『マーラー』(1974)のなかでこの天才作曲家はいう。「僕が音楽を選ぶのではない。音楽が僕を選んだのだ」<イメージ>はこのように無意識のうちに湧いてくるものである。
 ここでこのように言ってしまうのは、随分突拍子もないように思われるかもしれないけども、<イメージ>というものの性格は、各人誰もが持っている最も大切なもの、<生命>というもの、それと似ている。
 <生命>について考えてみる。自分にとって最も大切なものがこの<生命>というものだけども、しかしそれは同時に最も説明しにくいものでもある。事実、僕はここに生きている。生きているからこんな文章が書けるんだろうけども、これは生きているからこそできるというわけであって、少なくともこの文章を書くために生きているんじゃない.「生きるために食べるのか、食べるために生きるのか」なんて、よく酒落たりするけども、食べるために生きるなんて馬鹿なことがあるわけがなくって、やはり生きるために食べている。いくら理由らしきものを挙げてみてもこういう風でしかなくて、<生命>の決定的な理由なんてのは皆目見当らない。だから、僕が生きることを始めた、<生命>を持ったということ、それには意味らしい意味はないとしか言いようがないみたいだ。なんたって、僕の意志によってそれを始めたんじゃないから。僕の知っているのは、すべてその結果だ。
 だから<生命>そのものについて敢えて説明しようとするなら、「ここにあるもんだよ」ということになってしまう。こういうふうに見てみると、ともに意味がないけど、やはり存在しているという点で、<イメージ>とく生命>というのはとても似ている。いや、そうではなくて、全く同じものなのかもしれない。また、自分自身無二の<生命>があるからこそ、自分自身無二の<イメージ>が存在しているということで、この2つは深く係わっている。さらには、表裏一体だ、ということもできるだろう。デカルトの『我考える、ゆえ我あり』、ならぬ、「我イメージあリ、ゆえ我あり」。
 ここまで率直に言ってしまえばもう分かってしまうと思うのですが、僕の映像作品論の骨子というのは、とどのつまり、<イメージ>は<生命>に帰結してしまう、という所にあるのです。


イメージは本質を携えてやってくる

 さて、<イメージ>と<生命>というのは全く同じだ、ということだけども、たとえばフィルムに映像化された<イメージ>と<生命>とは全く違う。じゃ、どこが違うのかと言えば、一方は具象的で目に見えるものであり、また一方は目には見えないということです。つまり、目に見えるか見えないかの違いがあるわけです。ということは、形にならない<生命>を形として見るためには、形となり得る<イメージ>を目に見える形に具象化すれば、それでいいということになる。したがって<イメージ>の具象化というのが、<生命>を直接確認するための唯一僕たちに残された方法だということになるのです。
 作家が作品を創るとき、創造活動を行なうという。この「創造」という言葉の周辺を考えてみると、不思議と同じことが言える。英語の<創造crea-tion>には"神の天地創造"や、"宇宙"といった意味がある。なんにもないところに、神が天地をつくることというわけだ。だから創造活動というのは、僕らが神に代わって、天地創造を行なったり、宇宙を創ったりする活動を意味するということになる。しかしまた同時に僕らは、神によって創られた天地や宇宙にいる<生命>を付与された<被造物creature>でもある。じゃ、僕らの行なっている創造活動というのは何なのだろうかというと、それはいうまでもなく自らをもう一度創りあげるということだ。ここまでがさっきの、<イメージ>によって<生命>を確認する、というところにあてはまります。
 しかし、今度は神というのがある。神に代わって自らを創りあげることになっている.じゃこのとき、いったい何が起こるか。つまり、神そのものを感じるというわけです。神自身の持つ感覚を覚える。
 神なんていう大時代的な言葉を使ったけども、これは<始源>という言葉に置き換えても一向に差し支えない。つまり、何にもないところから天地創造さえも行なわれた<始源>、「始まり」っていうこと。またあるいは、「始まり」が起こるための意味、それ自体がもたらされている意味、ということで<本質>とさらに置き換えることも可能だ。そもそも物事というのはいくら進化しても、その<本質>的なものから離れるということは決してないからだ。もしそれから離れたとするならば、それは全く別なものになってしまう。そして<本質>には常に偉大なもの、つまり、根源的な価値が隠されている。だから、<イメージ>の具象化をする創造活動というのは、いうならばそこにある<生命>を自覚し、さらにその<本質>を知るという行為だ。

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