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2012.09.15

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(16)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
VI イメージを超えて(2) (IDE vol.40 1989:p110-112)



言葉の生み出した<意識>

 僕たちにこのような<意識>が現われたというのは、僕らが言葉というものを持っているからです。
 言葉というものは、前に-意味するもの-と-意味されたもの-を持つ記号的なものであるといった。しかし、厳密にいうと単なる記号ではない。記号的なものである前に、事物に対して、これとこれは別のものであるという差異を明らかにするものだ。
 本来すべての事物は漠然として存在している。ここにおいてこれらは秩序立っておらず、何の差異も認められない。しかし、「ボール」、「ツキ」と名付けることによって、この2つには差異が生じ、その結果、個別であるということからの意味が生じてくる。ここでいえるのはこの世の中には、そもそも絶対的である意味を持ったものは何一つなく、したがってそれらを関係づけることにおいてのみ価値・意味あるものとなるということだ。またこういった関係をもたらすのは唯一言葉というものである。またその価値・意味というのは唯一人間にとってだけのものである。
 言葉と意味、そして意識は微妙な絡み方をしている。
 僕らはまず言葉を知らされた。たとえば、ボールで遊んでいると、これは「ボール」よ、と母親か誰かに教えられる。今度は、空の月を見て「ボールだ」というと、笑われ、あれは「ツキ」というのよ、といわれる。ここで、同じく「丸い」けれども、「ボール」は「手に掴めるもの」、「ツキ」は「手に掴めないもの」として捉えられる。「ボール」や「ツキ」と名付けられているものをともに知ることによって、ようやく「手に掴めるもの」か「手に摺めないもの」かという新しい差異、概念がもたらされるのです。このように言葉を多く知らされることによって差異に対する認識が必然的に必要となり、さらには認識網というのが確立されて、やがてそれは自分自身の認識網としての自己、つまり<意識>となっていったのです。


過剰な<意識>

 <意識>が見出だしているのはすべて、意味要素を担ったものである。これは何々という完結的な意味はないにしても、すべてが関係の上から取り立てられたものである。だから意識するということは、物事を分断するという行為ともいえる。
 <意識>による理性が今まで為してきたことは、世界を分節化し、その断片断片を再び結合したということだ。たしかに科学技術の発展というのは理性の為せる技であり、それによって僕たちの生活は豊かになった。しかし科学の発展というのはあるものを分節し、それによって得た断片を再び分節し、それによって得た断片をさらにまた分節していくという連鎖反応的なものの結果であり、それによってもたらされた生活の豊かさというのは豊潤なものというよりも、より断片的でよリ偏ったものになりつつある傾向がある。
 誰もが恐れているのが死というものだけども、民話などは恐ろしいほど軽々しくこれを扱ってのける。子供向けの『マザー・グース』なんていう童話(?)でも死を扱った残酷なのほ幾つもある。こういった伝承的な物語に死が頻繁に見られるというのは、断片的でない広い視野で人間を見ると、実は死さえも人間の取リ得る一つの形態にすぎないということだ。結局死というのは、生まれることや食べること、眠ることと同じレベルでしかない。しかし医学の発達で人間の死というのが生というものから分離され、誇大して見られるようになった。意識しすぎるようになったのだ。医学部生で、将来医者になるであろう小山は「うつりゆく世の中で生命の死というのは永遠である。一度死ぬと、その事実はくつがえざれない。それゆえ死というものは人間に大きくのしかかってくる」といった。でも敢えて僕はこういってしまおう。「うつりゆく世の中で一つの生命の死というものは実に取るに足りないものだ」
 意識過剰というのはさらに進んでいく。何かをしなければならない、何か意味のあることをしなければならない。僕らにはたいてい常にそんな焦りがある。湯布院映画祭実行委員長の田井さんがエッセイでこういっている。「日々生活をしてゆくためにだれだってそれがおもしろいおもしろくないとは無縁に働くだろうし、そのことで生活してゆく。不満はあるだろうけど、それでも生活があってこそ、はじめてそこに「潤いがほしい」と思ってみたり、本当にやりたいことをやってみたりか始まるのじゃないか。「何かやりたい」と半ば強迫観念で口走ってしまうのを耳にすると、「じゃあ、あなたはなにもしていないのですか」と聞きたくなってしまう」僕らは何をそうカラカラと焦っているのだろう。
 皮肉なことに、件の天才作曲家マーラーもまた人生の意味というものを偏執的に問う人間だった。彼はただただ死を恐れ、人生の虚無と無常にうちひしがれ、そして多くの曲を書かずにいられなかった。


<無意識>のなかに眠っているもの

 <意識>というものはいうまでもなく、人間というのをかたわにしてしまった。だからといってこの<意識>からは逃れることはできない。こういった理詰め的・分節的な<意識>の出現で総体的なものが押しやられてしまった。いうまでもなく<無意識>の中にだ。もっとも<無意識>というより<意識下>といった方がいいかもしれないけど。それが感じられなくなってしまった。
 こんな体験がある。おそらく皆似たような体験が一度はあると思う。春だったか、天気のいい日だった。で、何気なく歩いていると、ふぁーっと突然体が軽くなって、自分が辺りの空気に解け込んでしまった。僕も辺りの木も建物もまったく同じレベルになっている。無性に嬉しくて仕方なかった。そして、なんだそうだったのかとすべてがわかってしまった。そこに宇宙的なものを感じたのだ。
 こういうのはBE(=あること)感覚っていうことになるらしいけども、存在すること自体が素晴らしいという感覚だ。これ以上何も必要じゃないじゃないんだろうかという、そんな感じ。なにをそんなにセカセカしているのだろうと、今までの自分が不思議で仕方なかった。また、死んでしまうことだって何でもなかった。永遠を感じた。意識によってでなく、僕は体感的にそれを取った。てもそれを意識的に意識したらすぐに醒めてしまった。
 <意識>の下に追いやられているのは、こういったものではないだろうか。つまり、宇宙というもの。


<イメージ>から現実へ

 五感とか、感覚機能の鈍ってしまっている僕らは、宇宙的なものに気づかないでいる。
 優れた<イメージ>・作品に出会う。撲らは無意識のうちに惹かれ感動をする。その時僕は<意識>から遠ざけられ、<無意識>のもと感性的になっている。その<イメージ>・作品の漂わせている宇宙の感覚を受け取ると同時に、感性自体も養われている。つまり、宇宙を感じるための感性だ。よリ鋭くそれを感じるための。
 ここで僕のいいたいのは、意識を捨て、無意識に本能に退行しろということじゃない。無意識に閉じこもってしまえば、人間社会というのは成立しなくなる。人間はやはり意識を得った、そして社会的な動物なのである。つまり、宇宙を感じたときのあの感覚、いうならば愛とでもいうか、をいかに意識的して自分の生きている社会に反映させるかが問題なのである。そして、それが実現できるというところに人間の素晴らしさというのがある。
 いうまでもなく<イメージ>は僕らに残された最後の武器なのです。

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