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2012.09.14

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(15)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
VI イメージを超えて(1) (IDE vol.40 1989:p108-110)


VI イメージを超えて


<意識>と<無意識>を持つ人間

 再び別の角度から<イメージ>というものを考えてみたいと思います。
 僕らは常に何か意識している。決して無意識じやない。でも、マーラーはいった。「音楽が僕を選んだのだ」これはどういうことかというと、マーラーはその音楽を意識して創ったのではなくて、無意識のうちにあるメロディーラインが浮かび出て、それを彼が五線譜に移し取ったということです。
 また、真の<イメージ>・作品に対して僕らは言葉を失う。たとえは、ガウディの『サグラダ・ファミリア』を観たとき、僕は何もいうことができなかった。それを言葉で説明すること、意識して理性によってそれが何であるかを示すことがまったくできなかった。ただ説明できないまま、<無意議>のまま、惹かれていた。
 こうやってみると<イメージ>というのは、<意識>と<無意識>の戯れだということができる。
 <意識>と<無意識>を持つ人間の宿命的という点から、<イメージ>の重要性を明らかにしてみたい。


<意識>というもの

 普段僕たちは<意識>というスーツを身につけている。<意識>というのは、知リ得ている自分の中の世界、つまり、主観と、また知り得ていない外の世界である客観とを区別するというものです。だから、僕らが知り得ているのは主観、つまり、自分自身・自己の範囲内でしかない。そして、さらに意識することによって、客観を主観として組み込んでいく。
 ここに挙げた図はJ・ルーシュとG・ベイトソンによる「情報を整序化し了解するプロセス」、つまり、自己(主観)と環境(客観)の関係を示したモデルです。このモデルをもとに「自分」と「太陽」の関係を示してみようと思います。左側の円環は「自分」を、つまり、有機的組織体の内部での働き掛け回路を示し、右の円環は「太陽」、つまり、組織体によってその外部に働き掛けられたものが、回り回って再び組織体に働き掛けるという回路を示している。この場合、ここでは「自分」が「太陽」を見ようとして、そして、見るという状況が表されることになる。点線で示されたのが自己の領域で、点線にあるように領域の移動は可能になってる。
 <意識>において問題なのは、意識することによって、どの範囲まで自己が浸透するかということです。いうまでもなく、自己で捉えられたものは、フィルターを通しての仮の姿ということであって、「幻」的なものになる。フィルターを通すというのほ、そもそも存在しないものが単にフィルターに映っているだけかもしれないという、印象をも与えるからだ。図では意識され得ない、自己というフィルターの外である、「環境」というのがあるけども、このような「環境」が存在することによってそれは実体を持つものになる。
 普段、自己は段階1のような自己の境界を持っています。たとえば、ふと、空を見ると雲の切れ目から太陽がある。『あっ、太陽だ』と思う、太陽だけを見るのがこの段階です。「自分」においても「太陽」においても、環境というものがある。「自分」「太陽」ともに実体を持っている。
 段階2では、自己が太陽の環境であった部分までを覆う。表層だけでなく深層、つまり、「太陽」が見えているということだけでなく、「太陽」が存在するということ、にまでにも意識が及ぶわけだ。ここにおいては、「太陽」が完全に自己の幻と化して、「太陽」に関して『自分のなかで太陽がまわっている』という印象を持つ。
 また、意識がさらに進み、この自己どいうものが肥大化されてくると、「自分」までもがその領域に入ってしまう。それが、段階3である。どういうことが起こるのかというと、ここにある自分は肉体を含めて、すべてが幻ではないかという感覚に襲われる。自己というのはそもそも掴み所がないものだから、さらにこれを誰かの夢とさえ感じる。また「自分」の外部も自己の領域にあるから、『誰かの夢の中で、自分が太陽をみている』どいうようになる。押井守の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(194)や『天使のたまご』(1986)はこの<意識>の肥大によって生じた夢妄想をモチーフにしている。また、米国のカール・プリグラムという神経生理学者に到っては、脳の研究の末、「万物は本来、われわれが知覚するこの世界とは全く別の、ある根源的な次元に属するもので、そこから我々の世界に波動を送っている。われわれは、ただ受け取った波動を脳ないで処理し、再構成しているのではないか。われわれが知るこの宇宙はすべて壮大な幻、すなわちホログラフイ(立体写真)なのだ」という論までも打ち建てた。こうなればここにいる自分というのはまったく存在のない幽霊と化してしまう。当然精神的には「虚無」の状態になって、精神障害を来すことになる。
 このように<意識>を持つ僕らは常に、自分の存在さえも疑わしくなるような不安定さにさらされている。
 またこのような不安定さというのは極端なもので、これにそうそう襲われるものではない。しかし、僕たちが普段多くが感じていること、「生きている意味がわからない」というのはこのく意識>が存在するためだ。

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