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2012.09.08

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(9)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
III 2つの印象(3) (IDE vol.40 1989:p99-101)


<イメージ>と<エモーション>

 ここでは2つの印象を与える非言語的なもの、<イメージ>というのを見てきたのだけども、その内の1つ“面白い・興味を注がれる"的なものは、確かに言葉に表せないものには違いないのだけども、しかし、本来<イメージ>と呼べるものではないのではないかということです。<イメージ>というものは、<センス>や<壮大な見せ物>に肩を貸すものではない、あくまでもそれ自体独立したものなのです。
 <イメージ>は“じんわりとした・心にしみわたる“的なものであって、それから<エモーション>が与えられるといったんだけども、<イメージ>と<エモーション>は次元をまったく異にしたものです。確かに<イメージ>からは常に<エモーション>が呼び起こされます。そもそも<イメージ>というのは1つの事実に他ならなくて、僕らはいつも自分外の対象に心を揺れ動かされているからです。だから必然的に<イメージ>によって<エモーション>がもたらされるわけです。じゃ、<エモーション>をそのまま与えればよいのかといえば、決してそうわけでもないのです。
 <イメージ>と<エモーション>の関係というのは、石が水面に投げられるときのあの様子に似ている。<イメージ>という石が心という水面に投げられる。投げられた石は水面に波動を起こして<エモーション>という波紋をつくる。この2つにはそういった関係がある。だから、<イメージ>が、"じんわりとした・心にしみわたる"的だといったのは、<エモーション>が広がっていっているというわけです。もし、その波紋をもう一度別の水面で再現しようとすると、どうすればいいでしょう。つまり自分の<エモーション>を真に別の誰かとわかちあうのにはどうすればいいのでしょう。そこで直接、波紋・<エモーション>をいくら再現してみせたって仕方ないことです。石を投げてやらなければ、結局何も起こらないんです。自分の波紋をつくった石そのものを再現して、再びそれを投げるのです。彼の持つ水面というのは、自分の水面とは違ったものかもしれない。でも、同じ石を同じ方法で投げ掛けてやるというのが、同じ波紋を起こす最良の方法なのです。そして、創り手に投げられた、その石<イメージ>にこそ最も大切なものが隠されているはずなのです。
 山野は『3/4ドキュメント』という作品をつくったのだけど、これは<エモーション>そのままがもとにされてつくられている。しかも視野の狭い、あくまでも彼の生きている現実に即した直接的な<エモーション>です。そして、この作品に描かれているのは、あれが欲しいのにお母ちゃんがそれを買ってくれないんだ、と駄々をこねている幼児のそれと似ている。つまリ、自分の<エモーション>をそのまま描くというのは、結局、自己愛でしかないということです。愚痴を書き列ねている日記というものが、読むのにいかに醜いかということだ。場合によっては、それに対して嫌悪さえもが催され得る。山野の映画というのは映像的<イメージ>に即した作品ではなく、どちらかといえば文学的要素の強い作品だ。ここでは映画的でない云々というのは置いておくとして、この作品でなされなければならなかったことはそれは単なる<エモーション>から脱するということだけども、そのために彼は比喩、中でも<メタファー(隠喩)metaphor>という形を取らなければならなかった。まるで愚痴のような告白ではなくて、俺はこうなんだ!と叫ぶんじゃなくて、冷静にそれの持つエッセンス・<本質>を全く別の新たな対象物に移し替え、直接伝えることが必要だった。ここにおいて、ものを見極める、つまり、投げ掛けられた石がどういったものかを見極める、そういった知性というものが自ずと要求されてくる。


今や映画には<イメージ>がない

 現在、映像作品といわれる映画が<センス>や<壮大な見せ物>、あるいは<エモーション>の表現である傾向が強いことに僕は懸念を感じずにはいられない。それはいうまでもなく、映画が同時代的な一過性のもの、あるいは、代償的なもの、そしてさらには、自己満足でしかないということを意味するからです。「映画を創ろうとするものは、既成の映画を多く観る必要はない。特に現在創られているものは観ない方がよい」、それは現在造られている映画作品の9割以上がそういった下らないものでしかなく、それに毒され続けながらも見ていくということをいかに回避しなければならないかということです。
 おそらく真に作品を創るためには、映画ほど商業的でない、映画以外の映像による芸術、絵画・写真等の作品を観賞することに頼らなければならないでしょう。それら作品から感受性と、本質をつかむ知性を養い、毅然(きぜん)として自分自身の<イメージ>をとらえていくことです。つまり、今や「映画を創ろうとするものは、まず何よりも、同じ視覚芸術である絵画・写真などに、慣れ親しむ」しか、映画を創る方法は残されていないのです。

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