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2012.09.06

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(7)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
III 2つの印象(1) (IDE vol.40 1989:p96-98)



III 2つの印象


面白い・興味を注がれる映像

 映画やその他、映像と呼ばれるものを観ていて、それには大まかに分けて、少なくとも2つの異なった印象を与える映嫁<イメージ>があるように僕には思えるわけです。とはいっても、この場合の<イメージ>っていうのは、さっきからいっているような言語の置き換えではないもの、という、それだけの条件においてですけど。
 つまり、僕には"面白い・興味を注がれる"的なものと、"じんわりとした・心にしみわたる"的な2つの<イメージ>が映像にはあるような気がする。そして、その他の映像というのは、おそらく(役者の演技・状況等の)単なる説明にしかすぎないといっても差し支えないでしょう。まあ、自分の鈍さのため、その何かを感じ取られないということもある、とは思うけども。
 それで、前者の"面白い・興味を注がれる"ようなものとしては、MTVなどでのプロモーションビデオに多くみられるような映像が傾向のある一端として最も的確に当てはまることになる。つまり、それらの多くは、目まぐるしいカッティング、意外なアングル、さまざまな撮影スピードの頬み合わせ、きらびやかな色彩などを、その主な要素としている。そして、それを観ている僕らは、ただその映像の流れてゆく様を<ショック(衝撃)>として受けながら、観てゆく。そこが、この感覚、<イメージ>の要です。


ショックを与えるセンス

それらを"面白い・興味を注がれる"と感じるのは、いうまでもなくその衝撃のためです。観ている僕らは、その映像によって、たとえば<エモーション(感情)emotion>の共有をするというのでは必ずしもなく、今までにない新しいパターン、敢えて言うなら"ニュー・バランス"とでもいうか、そういったものによるショックに絶えず揺れ動され続けるということから心地よさを与えられ、その結果、その映像というのは、奇を衒ったものであったり面白く興味を注がれるものとなる。それらは常に<ショック>となり得るニュー・バランスを備えているわけなんだけども、実際僕らが魅かれているというのはその<ショック>を形づくっている無機質的な事物的・デザイン的なな要素、つまリ、<センス>だというわけです。この"面白い・興味を注がれる"映像をつくったり、また、それを感じたりするためには、必然的にこの<センス(バランス感覚)>というものが必要となってくる。
 オーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1941)というのは、いうまでもなくその<センス>による作品の超代表的なものです。この作品、内容は実に陳腐、しかし、ここまで名声を得てきたのは、この<センス>・新しいバランス感覚に基づくそれまでになかったモンタージュ技法によるショッキングな表現形式のためなのです。当時映像革新なんていわれ、今でも一部では映画史上最高傑作といわれているこの作品なんだけども、あの目まぐるしいモンタージュ技法なんてのは現在すでに多くの作品に受け継がれているもので、さらにはこの作品以上のものが輩出されている。まあ、その最高傑作というのが、あのびあ入選の8mm映画『いそげ、プライアン』(小松隆志、1985)だったりするわけです。そんなふうでようやく近年になってこの『市民ケーン』を観ることになった僕にとっては、残念なことにこの作品、何の感動も覚えられない過去の遺物でしかないという感じのものでしかなかった。
 具志堅の創った『PROTOTYPE』もまた、この<センス>というものを持った作品です。この場合、ウェルズのような表現技法における<センス>ではなくて、役者の演出に関する<センス>というもの。もっともこの作品に見られる<センス>そのものは残念ながら決して彼のオリジナルじゃなく、CFとかですでに随分馴染みあるものだ。この作品や1部のCFの持っているような感覚が初めて形となって現われたのは、おそらく森田芳光の『家族ゲーム』(1983)辺りからでしょう。彼の作品の面白さ、つまりあの奇妙な間の引き起こす“ズレ現象"とでもいうべき<センス>が認められ、巷にこの<センス>というのが蔓延し始めたのは、少なくともここ5、6年のような気がする。しかし、この“ズレ現象"というのは、実際のの日常ではまず見られないというか、さしあたって感じられないものだ。無理に見出だそうとすれば、まあ、不可能じゃないけども。ということは、それは森田の手によってつくりあげられ、そして僕たちが感化されたというわけです。


センスは一過的

 ところで、<センス>っていうのは、「彼の服装のセンスはいい」とか日常生活によく使われる言葉だけど、服装における<センス>というものを見てみればよく分かるように、昭和40年代には確かに<センス>あるといわれたものが、今日では信じられないほど<センス>のない、いわゆるダサイものになっていたりする。映画でも同じことがいえて、少なくとも僕にとっての『市艮ケーン』なんてそうだ。これらの事実から見られるのは、<センス>を担っているバランス感覚というものが、いかに時代を反映しているかということです。<センス>というものは常に、時代の微妙な価値観と共に歩んでいる。また逆にこの<センス>によっても、時代の価値観が創られてゆくこともある。ファッションっていうのは、ある有名デザイナーの<センス>にしたがってつくられたものによって、その年のモードが決められていったりする。だから、<センス>で創られだものは、必ずしも百年後にさえも通用するという普遍的なものではない。一過的なものです。余談になるんだけども、殊にこのファッションに関するかぎり、今ではもう半年サイクルという短い期間で替わっているなんて、聞きます。したがって、"面白い・興味を注がれる"というのは、言い換えれば"痙攣的"であるともいえる。それは痙攣するように広まっていくんです。で、治まれば何ともなくなってしまう。またこの<センス>というのは、新たに価値をつくるというものであるいうことは明らかだ。ここで注意しなければならないのは、自ずと価値が生じるというのでなくて、価値を持ったものとして作り上げられるということです。だから、社会傾向の認容の中においての存在で、認められなければいつまでも意味はないということになる。また、森田についてなのだけども、彼の後自身の作品に関しての発言「強いて言えば、自分の技術のメッセージでしかない。(中略)オレのテクを見てくれって感じですよ」も忘れてはならない。

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