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2012年9月の21件の記事

2012.09.19

秋が来た

 やはり季節の変わり目と云うのは突然である。

 今日の当地の気象観測データを見ると最高気温が27℃とかになっている。この前の週末は、車に乗っていて、陽が弱くなってきて、いかにも夏を過ぎたという光景を感じていたのだが、気温はまだ32℃は超えていて、残暑の候だったのだが、昨日あたりからすっかり変っている。

 ずーっと開け放っていた窓は数センチ空かした状態で閉じた。室温が30℃を超えていると暑いと感じるのだが、28℃くらいになると暑いというより涼しいと感じる。冷房は28℃で調整、というのはかなり贅沢なような気がする。

 本日はすでに最低気温が20℃を下回った。

 夕暮れも早くなった。本日の日没は18:09。仕事の帰りには、サングラスが必要でなくなってしまった。もう半月もすれば、帰宅は日没後になる。

 秋が深まるのは早い。くれぐれも体調管理には気をつけよう。

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2012.09.16

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(17)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
関連・参考文献 (IDE vol.40 1989:p113)


関連・参考文献(全文献貸出し可)

I章
石丸真一『私の映画観』、映研新聞Vol.4

II章
F・D・ソシュール(小林英夫訳)『一般言語学講義』、岩波書店
丸山圭三郎編『ソシュール小事典』、大修館書店
丸山圭三郎『ソシュールを読む』、岩波セミナーブックス
岡田晋『映画学から映像学へ』、九州大学出版会
杉山平一『映画芸術への招待』、講談社現代新書
岩崎昶『映画の理論』、岩波新書
大石雅彦『映画言語と手法の発見』、イメージフオーラム100号、ゲダレオ出版
村山匡一郎『トーキー映画の試み』、同
小松弘『映像と映像論理の起源』、同
石丸真一『イレイザーヘッド-悪夢映像-』、イデ36号

III章
川崎徹×森田芳光『おもしろさはあみだくじ<対談>』、広告批評54号、マドラ出版
『ファッション狂騒曲』、別冊宝島
河上靖『『SFX』について書いてみた!』、イデ34号
『rシネアスト7 ホラー大好き!』、青土社

IV章
前沢哲爾『ハイビジョン、今始まったばかり』、イメージフォーラム100号、ゲダレオ出版
『キュープリック語録』、イメージフオーラム増刊号「キューブリック」
石丸真一『THE SHINING-これぞ映像的恐怖映画-』、イデ34号

V章
B・エドワーズ(北村孝一訳)『内なる画家の眼』、エルテ出版
A・タルコフスキー(鴻英良訳)『映橡のボエジア』、キネマ旬報社
A・タルコフスキー『二つの世界の問で』、CINE VIVIANT No4「ノスタルジア」
A・タルコフスキー『映画と“カタルシス"』、「ストーカー」パンフレット
樋ロ泰人編集『タルコフスキーAtワーク』、芳賀書店
長谷川集平『映画未満(1~41)』、キネマ旬報連載
長谷川集平『絵本づくりトレーニング』、筑摩書房
ハーパート・リード(滝ロ修造訳)『芸術の意味』、みすず書房
吉田秀和『音楽の退屈』、広告批評107号、マドラ出版
種村季弘『退屈が文化である』、広告批評107号、マドラ出版
『マーラー』シナリオ、細川直子採録、CINEMA SQUARE MAGAZIN NO.52「マーラー」
S・K・ランガー(池上保太・矢野萬里訳)『芸術とは何か」、岩波新書

VI章
丸山圭三郎『言葉と無意識』、講談社現代新書
植島啓司×伊藤俊治『ディスコミュニケーション』、リブロポート
浦達也・松村洋・宇佐美亘『感覚の近未来』、新曜社
黒木幹夫『深層心理学と神秘主義』、「神秘主義を学ぶ人のために」、世界思想社
『モンスーン 土にこだわる第1号』、モンスーン舎
『1986年度ベストテンシネマ(邦画)』、イデ36号
宇野功芳『マーラーと<大地>』、ロンドン・レコード「マーラー;交響曲「大地の歌」」ライナーノーツ
秋山さと子『ユングとオカルト』、講談社現代新書
山崎正一+市川浩編『現代哲学事典』、講談社現代新書
今村仁司編『現代思想を読む事典』、講談社現代新書
宮本忠雄『精神分裂病の世界』、紀伊國屋書店
宮城音弥『ノイローゼ』、講談社現代新書
『最新脳科学 脳は脳を理解できるか』、最新科学論シリーズ3、学研
高橋宏『「心」とは何か』、プルーバックス、講談社
荒俣宏編『世界神秘学事典』、平河出版社

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2012.09.15

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(16)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
VI イメージを超えて(2) (IDE vol.40 1989:p110-112)



言葉の生み出した<意識>

 僕たちにこのような<意識>が現われたというのは、僕らが言葉というものを持っているからです。
 言葉というものは、前に-意味するもの-と-意味されたもの-を持つ記号的なものであるといった。しかし、厳密にいうと単なる記号ではない。記号的なものである前に、事物に対して、これとこれは別のものであるという差異を明らかにするものだ。
 本来すべての事物は漠然として存在している。ここにおいてこれらは秩序立っておらず、何の差異も認められない。しかし、「ボール」、「ツキ」と名付けることによって、この2つには差異が生じ、その結果、個別であるということからの意味が生じてくる。ここでいえるのはこの世の中には、そもそも絶対的である意味を持ったものは何一つなく、したがってそれらを関係づけることにおいてのみ価値・意味あるものとなるということだ。またこういった関係をもたらすのは唯一言葉というものである。またその価値・意味というのは唯一人間にとってだけのものである。
 言葉と意味、そして意識は微妙な絡み方をしている。
 僕らはまず言葉を知らされた。たとえば、ボールで遊んでいると、これは「ボール」よ、と母親か誰かに教えられる。今度は、空の月を見て「ボールだ」というと、笑われ、あれは「ツキ」というのよ、といわれる。ここで、同じく「丸い」けれども、「ボール」は「手に掴めるもの」、「ツキ」は「手に掴めないもの」として捉えられる。「ボール」や「ツキ」と名付けられているものをともに知ることによって、ようやく「手に掴めるもの」か「手に摺めないもの」かという新しい差異、概念がもたらされるのです。このように言葉を多く知らされることによって差異に対する認識が必然的に必要となり、さらには認識網というのが確立されて、やがてそれは自分自身の認識網としての自己、つまり<意識>となっていったのです。


過剰な<意識>

 <意識>が見出だしているのはすべて、意味要素を担ったものである。これは何々という完結的な意味はないにしても、すべてが関係の上から取り立てられたものである。だから意識するということは、物事を分断するという行為ともいえる。
 <意識>による理性が今まで為してきたことは、世界を分節化し、その断片断片を再び結合したということだ。たしかに科学技術の発展というのは理性の為せる技であり、それによって僕たちの生活は豊かになった。しかし科学の発展というのはあるものを分節し、それによって得た断片を再び分節し、それによって得た断片をさらにまた分節していくという連鎖反応的なものの結果であり、それによってもたらされた生活の豊かさというのは豊潤なものというよりも、より断片的でよリ偏ったものになりつつある傾向がある。
 誰もが恐れているのが死というものだけども、民話などは恐ろしいほど軽々しくこれを扱ってのける。子供向けの『マザー・グース』なんていう童話(?)でも死を扱った残酷なのほ幾つもある。こういった伝承的な物語に死が頻繁に見られるというのは、断片的でない広い視野で人間を見ると、実は死さえも人間の取リ得る一つの形態にすぎないということだ。結局死というのは、生まれることや食べること、眠ることと同じレベルでしかない。しかし医学の発達で人間の死というのが生というものから分離され、誇大して見られるようになった。意識しすぎるようになったのだ。医学部生で、将来医者になるであろう小山は「うつりゆく世の中で生命の死というのは永遠である。一度死ぬと、その事実はくつがえざれない。それゆえ死というものは人間に大きくのしかかってくる」といった。でも敢えて僕はこういってしまおう。「うつりゆく世の中で一つの生命の死というものは実に取るに足りないものだ」
 意識過剰というのはさらに進んでいく。何かをしなければならない、何か意味のあることをしなければならない。僕らにはたいてい常にそんな焦りがある。湯布院映画祭実行委員長の田井さんがエッセイでこういっている。「日々生活をしてゆくためにだれだってそれがおもしろいおもしろくないとは無縁に働くだろうし、そのことで生活してゆく。不満はあるだろうけど、それでも生活があってこそ、はじめてそこに「潤いがほしい」と思ってみたり、本当にやりたいことをやってみたりか始まるのじゃないか。「何かやりたい」と半ば強迫観念で口走ってしまうのを耳にすると、「じゃあ、あなたはなにもしていないのですか」と聞きたくなってしまう」僕らは何をそうカラカラと焦っているのだろう。
 皮肉なことに、件の天才作曲家マーラーもまた人生の意味というものを偏執的に問う人間だった。彼はただただ死を恐れ、人生の虚無と無常にうちひしがれ、そして多くの曲を書かずにいられなかった。


<無意識>のなかに眠っているもの

 <意識>というものはいうまでもなく、人間というのをかたわにしてしまった。だからといってこの<意識>からは逃れることはできない。こういった理詰め的・分節的な<意識>の出現で総体的なものが押しやられてしまった。いうまでもなく<無意識>の中にだ。もっとも<無意識>というより<意識下>といった方がいいかもしれないけど。それが感じられなくなってしまった。
 こんな体験がある。おそらく皆似たような体験が一度はあると思う。春だったか、天気のいい日だった。で、何気なく歩いていると、ふぁーっと突然体が軽くなって、自分が辺りの空気に解け込んでしまった。僕も辺りの木も建物もまったく同じレベルになっている。無性に嬉しくて仕方なかった。そして、なんだそうだったのかとすべてがわかってしまった。そこに宇宙的なものを感じたのだ。
 こういうのはBE(=あること)感覚っていうことになるらしいけども、存在すること自体が素晴らしいという感覚だ。これ以上何も必要じゃないじゃないんだろうかという、そんな感じ。なにをそんなにセカセカしているのだろうと、今までの自分が不思議で仕方なかった。また、死んでしまうことだって何でもなかった。永遠を感じた。意識によってでなく、僕は体感的にそれを取った。てもそれを意識的に意識したらすぐに醒めてしまった。
 <意識>の下に追いやられているのは、こういったものではないだろうか。つまり、宇宙というもの。


<イメージ>から現実へ

 五感とか、感覚機能の鈍ってしまっている僕らは、宇宙的なものに気づかないでいる。
 優れた<イメージ>・作品に出会う。撲らは無意識のうちに惹かれ感動をする。その時僕は<意識>から遠ざけられ、<無意識>のもと感性的になっている。その<イメージ>・作品の漂わせている宇宙の感覚を受け取ると同時に、感性自体も養われている。つまり、宇宙を感じるための感性だ。よリ鋭くそれを感じるための。
 ここで僕のいいたいのは、意識を捨て、無意識に本能に退行しろということじゃない。無意識に閉じこもってしまえば、人間社会というのは成立しなくなる。人間はやはり意識を得った、そして社会的な動物なのである。つまり、宇宙を感じたときのあの感覚、いうならば愛とでもいうか、をいかに意識的して自分の生きている社会に反映させるかが問題なのである。そして、それが実現できるというところに人間の素晴らしさというのがある。
 いうまでもなく<イメージ>は僕らに残された最後の武器なのです。

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2012.09.14

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(15)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
VI イメージを超えて(1) (IDE vol.40 1989:p108-110)


VI イメージを超えて


<意識>と<無意識>を持つ人間

 再び別の角度から<イメージ>というものを考えてみたいと思います。
 僕らは常に何か意識している。決して無意識じやない。でも、マーラーはいった。「音楽が僕を選んだのだ」これはどういうことかというと、マーラーはその音楽を意識して創ったのではなくて、無意識のうちにあるメロディーラインが浮かび出て、それを彼が五線譜に移し取ったということです。
 また、真の<イメージ>・作品に対して僕らは言葉を失う。たとえは、ガウディの『サグラダ・ファミリア』を観たとき、僕は何もいうことができなかった。それを言葉で説明すること、意識して理性によってそれが何であるかを示すことがまったくできなかった。ただ説明できないまま、<無意議>のまま、惹かれていた。
 こうやってみると<イメージ>というのは、<意識>と<無意識>の戯れだということができる。
 <意識>と<無意識>を持つ人間の宿命的という点から、<イメージ>の重要性を明らかにしてみたい。


<意識>というもの

 普段僕たちは<意識>というスーツを身につけている。<意識>というのは、知リ得ている自分の中の世界、つまり、主観と、また知り得ていない外の世界である客観とを区別するというものです。だから、僕らが知り得ているのは主観、つまり、自分自身・自己の範囲内でしかない。そして、さらに意識することによって、客観を主観として組み込んでいく。
 ここに挙げた図はJ・ルーシュとG・ベイトソンによる「情報を整序化し了解するプロセス」、つまり、自己(主観)と環境(客観)の関係を示したモデルです。このモデルをもとに「自分」と「太陽」の関係を示してみようと思います。左側の円環は「自分」を、つまり、有機的組織体の内部での働き掛け回路を示し、右の円環は「太陽」、つまり、組織体によってその外部に働き掛けられたものが、回り回って再び組織体に働き掛けるという回路を示している。この場合、ここでは「自分」が「太陽」を見ようとして、そして、見るという状況が表されることになる。点線で示されたのが自己の領域で、点線にあるように領域の移動は可能になってる。
 <意識>において問題なのは、意識することによって、どの範囲まで自己が浸透するかということです。いうまでもなく、自己で捉えられたものは、フィルターを通しての仮の姿ということであって、「幻」的なものになる。フィルターを通すというのほ、そもそも存在しないものが単にフィルターに映っているだけかもしれないという、印象をも与えるからだ。図では意識され得ない、自己というフィルターの外である、「環境」というのがあるけども、このような「環境」が存在することによってそれは実体を持つものになる。
 普段、自己は段階1のような自己の境界を持っています。たとえば、ふと、空を見ると雲の切れ目から太陽がある。『あっ、太陽だ』と思う、太陽だけを見るのがこの段階です。「自分」においても「太陽」においても、環境というものがある。「自分」「太陽」ともに実体を持っている。
 段階2では、自己が太陽の環境であった部分までを覆う。表層だけでなく深層、つまり、「太陽」が見えているということだけでなく、「太陽」が存在するということ、にまでにも意識が及ぶわけだ。ここにおいては、「太陽」が完全に自己の幻と化して、「太陽」に関して『自分のなかで太陽がまわっている』という印象を持つ。
 また、意識がさらに進み、この自己どいうものが肥大化されてくると、「自分」までもがその領域に入ってしまう。それが、段階3である。どういうことが起こるのかというと、ここにある自分は肉体を含めて、すべてが幻ではないかという感覚に襲われる。自己というのはそもそも掴み所がないものだから、さらにこれを誰かの夢とさえ感じる。また「自分」の外部も自己の領域にあるから、『誰かの夢の中で、自分が太陽をみている』どいうようになる。押井守の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(194)や『天使のたまご』(1986)はこの<意識>の肥大によって生じた夢妄想をモチーフにしている。また、米国のカール・プリグラムという神経生理学者に到っては、脳の研究の末、「万物は本来、われわれが知覚するこの世界とは全く別の、ある根源的な次元に属するもので、そこから我々の世界に波動を送っている。われわれは、ただ受け取った波動を脳ないで処理し、再構成しているのではないか。われわれが知るこの宇宙はすべて壮大な幻、すなわちホログラフイ(立体写真)なのだ」という論までも打ち建てた。こうなればここにいる自分というのはまったく存在のない幽霊と化してしまう。当然精神的には「虚無」の状態になって、精神障害を来すことになる。
 このように<意識>を持つ僕らは常に、自分の存在さえも疑わしくなるような不安定さにさらされている。
 またこのような不安定さというのは極端なもので、これにそうそう襲われるものではない。しかし、僕たちが普段多くが感じていること、「生きている意味がわからない」というのはこのく意識>が存在するためだ。

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2012.09.13

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(14)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
V 永遠なるイメージへ(4) (IDE vol.40 1989:p107-108)



カタルシスというもの

 アインシュタインは、<美>を求めた。しかし、湧いてくる<イメージ>というのは、必ずしも美しいものとは限らない。カフカの『変身』に描かれているのは「不条理」というものだ。また、山野が『3/4ドキュメント』で描こうとしたのは、やるべきことが見えてこないという「虚無感」である。しかし、これらもまた<イメージ>であることは間違いない。「醜さ」というのでは決してなく、いわば「悪夢」的に迫ってくるこれらの<イメージ>が僕らにもたらすのは何だろう。また、このような<イメージ>が湧いてくるというのは、貧困な精神のためなのだろうか。
 僕らには痛みという感覚がある。この感覚、ないと大変なことになる。時たま、遺伝的な疾患で痛みという感覚のまったくないという人がいる。盲腸炎なんてのは、痛みでわかるのだけども、でも彼にはわからない。彼にとって日常生活というのは大変なもんで、常に注意してなければ昔の人のように盲腸炎一つであっけなく死んでしまったりする。だから痛みというのは、そこに疾患があることを教えてくれる唯一の警報機なんです。
 痛みが体の歪みを示してくれるのなら、心の歪みを示してくれるのがこの「悪夢」のような<イメージ>です。体が鈍っていると痛みは感じない。痺れた足をいくらひっぱたいたって、ちっとも痛くはない。心の歪みにしたって同じです。鈍った心は歪みを感じない。そしてそのままほっておくと折れてしまうというのは明らかです。澄んだ心、優れた知性によってこそ、歪みは見出だされるのです。つまり、<イメージ>によって真実が示されるのです。
 アリストテレスが『詩学』でいいだしたことだけども、精神の浄化を意味する<カタルシスkatharsis>というのがある。これは、悲劇の与える恐れや哀れみの情緒というのは、観客がそれを味わうことによって、日頃心に彰積していたそれらの感情を放出させ、心を軽快にするというのです。もっとも<イメージ>によって明らかにされる意識下の歪みが複雑になってくれば、単に一時的に感情を放出し、スッキリするだけにはいかなくなってくる。さらにそこでいかにその歪みを理解し、その原因となるものに対処、克服し、<本質>・保たれるべき理想状態に向うかという問題が起こってくるのです。
 また、このような歪みを示してくれる<イメージ>というのが存在するというのは、いうまでもなく人間にはあるべき姿があり、無意識のうちにそれを望んでいて、またそれを実現させる力を持っているということです。


<イメージ>は偉大なる財産

 これらのことが<イメージ>に隠されている意味です。
 また同時にこれらは、数千年前に描かれた絵もが、なぜ僕らの観賞に堪え、さらには感動をも呼び起こし得るのか、ということの理由でもある。
 <イメージ>が<イメージ>であるかぎり、僕らには他人にそれを提示することしかできない。つまり、僕の<イメージ>が何を意味するかを知っていたとしても、たぶん僕自身そのすべてを知リ得はしないだろうけども、誰にも教えられないのだ。直観として悟り、理解してもらうしかない。
 もっとも、何事に関しても、ほかの誰かに何かを教えるというのはもともと不可能なことだ。なにかを強制することは可能かもしれない。しかし、理解を強いることはできない。僕らにできるのはそれを理解するに到った僕らの遭遇した事実、それを提示することだけだ。
 また、タルコフスキーが言っている。「傑作は、天才性を主張する作品のなかから、必ずしも識別されうるとも、されないともかぎらないままに、機雷敷設区域の警戒標識のように、世界中にばらまかれている。われわれが吹き飛ばされないのは、単なる幸運からだ!」。これはどういうことか。僕ら自身まだまた発展途上にあるってことだ。あらゆる意味で。
 そうして、死の一週間前に書き上げた著書の最後で彼はこう言い残した。「問題のすべてはわれわれが想像上の世界に生きており、われわれ自身がこの世界を創造しているということなのだ。それゆえに、われわれ自身、世界の欠陥にかかわっているが、その利点にかかわることもできたはずなのある。最後に、読者を完全に信頼して打ち明けよう.実際人類は芸術的イメージ以外には何一つとして私欲なしに発見することはなかったし、人間の活動の意味は、おそらく、芸術作品の創造のなかに、無意味で無欲な創造行為の中にあるのではないだろうかと、と。おそらく、ここにこそわれわれが神の姿に似せてつくられている、つまリ、われわれに創造する力があるということが表明されているのである」

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2012.09.12

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(13)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
V 永遠なるイメージへ(3) (IDE vol.40 1989:p105-107)



理論に<美>を見出だすアインシュタイン

 作家そのものではないけども、天才物理学者のアインシュタイン、彼に関して非常に興味深い逸話が幾つか残っています。アインシュタインは<美>に対する執着が激しく、理論においてでさえ、もし<美>が感じられなかったならば、一言「醜い」といって見向きもしようとしなかった。また、彼がそれを嫌うだけでなく、他人がそんな醜いものに喜んで携わっているのが理解できなかったという。また、優れた理論や仕事の最高の賛辞というのは、正しいという言葉ではなく「美しい」という言葉だ、ともいった。そうして、<美>こそが論理物理学の重要な研究を導く原則だというのだった。
 彼の従事していた理論というのは、「ある物事に対して、原則・法則をよりどころにして筋道を立てて考えた認識の体系」というものです。だから、理論というのは認識そのものでもある。いままで<イメージ>の話をしていたのだけども、<イメージ>というは決して意識の外にあるのではなくって、必ず意識されたものです。したがって、<イメージ>というのは、認め確認されるもの、認識されうるものともいえるでしょう。理論家の脳裏には常に理論化される前のある物事に対する<イメージ>があるというわけです。理論家というものの作業というのは、第一に事物に関する<イメージ>を掴み取り、さらに第二にそれを、この場合、原則・法則をよりどころにした筋道ですが、フォルム・形へと置き直していくということです。これは、画家が絵を描くという作業と全く同じです。
 アインシュタインが理論に<美>を求めたというのは、1つは、<イメージ>がいかに理論として筋道を立てて具象化されているかという点だろう。たとえもともとあったその<イメージ>がいくら素晴らしいものでも、デッサンの下手な絵からそれを伺い知るということはからっきし不可能だから。理論化する場合は特に注意しなくてはならない。今僕はこうやって理論化の真似ごとのようなことをしているのだけども、正直な所、途中辻褄(つじつま)の合わないところが幾つも現われ、絶えず修正を強いられている。ということは、もともどあった<イメージ>というのが歪んできているわけだ。だから、この文章というのは全体的に何を言っているのか分からないということからの「醜さ」が十分にあり得る。まず、その<イメージ>が確かなこと、そして具象化の技術の完壁さが必要なのです。


<本質>は<美>を呼び起こす

 第二に、おそらくこのことをアインシュタインは言っていると思うんですが、その<イメージ>自体のことです。アインシュタインは、納得でき、理に適っていると思われる理論でさえも、「醜い」といったそうです。つまリ、彼はその理論から再びその理論のもととなる<イメージ>を再生し、その事物に対する<イメージ>、それ自体を「醜い」といったのです。たとえば誰かが『この世はすべてお金だ。お金さえあれば、楽に自由に暮らせられる』といったとする。これは彼のこの世の中に対しての<イメージ>です。さて、どう感じるか。僕は、「醜い」と感じます。たぶん多くの人がそうでしょう。アインシュタインの持った「醜い」という印象はこれと同じです。彼が「美しい」と感じた理論というのは、いうまでもなく<本質>をついたものだからです。「美しさ」の中には常に秩序が保たれている。そうしてそこには、自然の保たれるべき理想的な形態・真理があるのです。事実、彼以上に自然界をうまく示し上げた人は現われていません。
 ここでも例の知性の問題が係わってきます。たとえば「この世は○×だ」というとしよう。ここには○×というわけの分からないものがある。僕らの理解を超えている。これは「美しい」ということはまずなくて、かといって、「醜い」かというとそうでもない。ただ単に分からないということです。こういった「醜い」とか「美しい」という直感・印象は如実に自分の知的レベルを反映しているんです。
 アインシュタインに話は戻るんだけども、彼の携わってきたのはあくまでも物理学という数式上の投界です。だから彼は事物を数式的に見ていたわけだ。彼の「相対性理論」なんていう偉業というのは、事物の<イメージ>を数式というもので捉える視覚的能力に長けていたことによる。その能力がただならないものだったというのは彼に理論が<イメージ>として見え、それに<美>を求めたということでも明らかだ。それと、物事を直観的に把握し見極める力、知性である。いうまでもなく彼は人並み外れた天才です。
 彼の研究によリ、原子爆弾が開発され、ヒロシマとナガサキに投下された。そこで多くの人間が死に、彼は苦しんだ。この苦しみというのは、『マリリンとアインシュタイン』(ニコラス・ローグ、1985)という作品に見事に描かれている。彼にとっての<美>というのは単に事物の現象の数式化においてだけでなく、人間の在り方においてにも見出だされていた、そして周知の通り、彼は核兵器廃止・平和運動に尽くさざるを得なかったのです。

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注目に値しない新党発足

 ついに狂気を孕んだ党が立ち上がったようだ。王道を絶対に歩まないことを信条にしているとしか思えない党首の党はろくなものではない。

 法律家でありながら、法は守るべきものではなく、掻い潜って旨く利用すべきものであるというのは理解に苦しむ。やる事なす事が法に抵触するということで、途中で投げ出されてしまう。良心・良識が完全に欠如している。

 そんな輩のすることは、その場限りのこと。信用すべきではない。

 政治家は将来を見据えて、地に足がついていないと、何事もできない。思いつきではなく、どうのようにしたいのかを前提に、足場を作っていって、現実のものにする。雄弁であるよりか、寡黙であった方が実はいい政治家かもしれない。

 選ばれれば、後は何をしても良いという発想は、狂気である。最高の責任を果たすために、選ばれるのである。

 評価が正しく行われることを祈る。

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2012.09.11

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(12)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
V 永遠なるイメージへ(2) (IDE vol.40 1989:p104-105)



例え話と<イメージ>

 とはいっても<イメージ>からによってではなくて、たとえば筋道を立ててそれを説いていくという理性によって概念を記述したのものからでも、その<本質>を知ることができるというかもしれない。でも、それは明らかに闇違っている。たとえば、「椅子」であれば、「人が座るためのもの」と<本質>をいいあてることができるかもしれない。だけど「椅子」のように人為的に作り上げたものでない、自然界のもの、自然発生的なものは、<イメージ>でないと<本質>は語り得ないのです。
 クイズ、さてこれは何でしょう。『岩よリ小さくて、砂より大きい鉱物質のかたまり。また、広く、岩石、鉱物を総称する』。そして『まるい形。また、まるい形をしたもの』は? これは国語辞典で引いた「石」と「丸」です。国語辞典というのは、それがどんなものであるのか知らない人が言葉という概念からそれを知るために用いるというものだけども、これで「石」や「丸」がどういったものだか分かりますか? 「丸」なんてのは、そのもの「まるい形」とあって、ほんとわけわからない。わかりきったこというなって言いたくなる。「石」なんかも知ってれば、これは確かに「石」なんだけど、知らなきゃ、さっぱりだ。僕がこの2つを知らない人に説明するんだったら、「石」なら『道端に転がっている小さくて堅いやつ』、「丸」なら『お月さまの形』とかいうだろう。またこの方が実際ずいぶんとわかりよいはずだ。でもこれはまさに僕の持っている「石」や「丸」に対する<イメージ>に他ならない。これはまさに、そのもの、<本質>を現わすためには<イメージ>を用いるしかないってことを示している。
 このことは、この文章でもいえることだ。僕が今説明しようとしている<イメージ>というのは自然発生的なものだ。また、この<イメージ>に関しての統一全体的なもの、<本質>的なものを携えたイメージ自体は、僕の頭のなかに存在している。でも、悔しいことにそれをそのまま全体として見せるすべを、僕は知らない。だから、せめて僕にでもできる、論文風に体系立てて、部分的に分割し、それを一つ一つ明らかにしながら、再び全体を明らかなものとして現わす、そういったことを試みている。そして、全体では無理にしろ、断片的な部分ではより<本質>に近づくために、そのままある言葉でストレートに言い切ってしまうというのではなくて、少しでも<本質>を携えた<イメージ>的な比喩に頼ろうとしている。この文章に例え話の多い理由だ。
 ちょっと脱線するけども、物事ををらう場合、「形から入れ」、なんてよくいう。剣道を習ったことのある人は知ってるだろうけど、最初はイヤというほど形ばかりをやらされる。でもそうやっているうちに、何だかよくわからないけども不思議と何かが見えてくる。剣道の心っていうか、そんな感じのものだ。また、お辞儀というのも同じ。尊敬なんてまったくないのに、いつも形式的にお辞儀をしていると、いつのまにか尊敬の念が呼び覚まされているのに気づく。つまり、こういった剣道の形とか、お辞儀というのは、遥か昔から伝承されてきた、剣道の心や尊敬の念をもたらすための理想的な形だ。この形というのは他ならぬ、「剣遵の心」や「尊敬の念」の動作的<イメージ>というものだ。「形から入れ」とはよくいったものだ。


精神はイメージを選択する

 前に<イメージ>は湧いてくるものだと言ったけど、この湧いてくる<イメージ>、人によってはその質が全く違ってくる。このことにも注目しておく必要があるでしょう。
 また、言葉の問題になるんだけども、日本に自然界の氷、つまり、自然に固体化したH2Oの状態を示すものは幾つあるでしょう。ちょっと調べてみると、氷、流氷、氷柱(つらら)、樹氷、霧氷、雨氷、霰(あられ)、霜といったところで、その他いくつか残っているとしても十幾つだ。僕らは氷に関してこの十幾つに見分けている。だけど、エスキモーになると、この氷を示す言葉というのが何十という数にもなる。これはどういうことかというと、エスキモーというのは日本人に比べて、氷というものについてはるかに認識が深いということです。彼らは氷と生活しているようなもんだからそんな風になってしまったんだろうけど、この氷に関しては日本人よりはるかに多くのことを見極めているというのは事実だ。エスキモーのいう××という氷と○○という氷について僕らは普段判断がつかない。これは、僕らにはそれらが見えてないということなんです。つまり、氷のその状態の差ってのが。僕らほすでにその差のあることに対して自体、目をつむってしまっている。
 ここでいう差っていうのをいかに認識しているかというのが、いうまでもなく<イメージ>の質にかかわっている。<イメージ>は湧いてくる。でも、僕らが普段全く気づいていない××という氷とか○○という氷とかが<イメージ>として僕らに現われるかどうかということです。まず、現われることはないでしょう。氷に関して僕らに現われる<イメージ>といったら、やはり氷柱や樹氷でしかないのです。
 これらの事実は、<イメージ>がいかに彼の精神性に直接係わっているかということを如実に示しています。<イメージ>は彼の外から、無意識に湧いてくる。しかし、それはあくまでも彼の精神というフィルターを通してのものなのです。彼がより高い精神性、つまり、より高い見極める力を持っていたなら、無意識のうちにも間違いなく、より豊かなそしてより<本質>に近づいた<イメージ>のみが彼にもたらされることになるだろう。だから作家に精神性や知性が求められるのは必然的なのです。
 このようにいうと、<本質>や<イメージ>というのは彼によって創られたものじゃないかという感じがしてくる。そうじゃない。全てはすでに与えられているのだ。ここでただそれを見るということが必要なのだ。<イメージ>として、あるものとして、それをできるかぎり受け入れようとする気構えがなされていなくてはならない。もっと心を広げて。そして、見逃さずに。

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2012.09.10

本日入荷の積ん読素材

 革命家チェの映画、「28歳の革命」と「39歳別れの手紙」の2部作は公開当時から気になっていた。映画館に観に行ことはないだろうから、DVDが出れば、買いたいなと思っていたのだが、実際にDVDが出ると高額で手が出せなかった。

 久しぶりにAmazonで検索してみると70%offなんてのになっていた。余程売れなく、在庫が残っているのだろう。

チェ コレクターズ・エディション (初回限定生産 豪華BOX&ブックレット付きピクチャーディスク3枚組)
チェ コレクターズ・エディション
(初回限定生産 豪華BOX&ブックレット付き
ピクチャーディスク3枚組)

監督: スティーヴン・ソダーバーグ
出演: ベニチオ・デル・トロ, デミアン・ビチル, カタリーナ・サンディノ・モレノ
ディスク枚数: 3
販売元: NIKKATSU CORPORATION(NK)(D)
DVD発売日: 2009/06/12
時間: 265 分

 庶民としては、この買い時を逃す訳には行かず、早速注文して、入手した。いろいろ観なきゃいけないDVDがあるので、観るのは暫く先になりそう。

 ちなみに、あたしはこのチェという人のことをまったく知らない。

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8mm映画創造の方へ 映画を超えて(11)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
V 永遠なるイメージへ(1) (IDE vol.40 1989:p102-104)


V 永遠なるイメージへ

そこにあるもの、<イメージ>と<生命>

 今までは<イメージ>というのはどういうものかということを中心に見てきたわけだけども、今度は、作品において僕の最重視する<イメージ>は僕らにとってどんなものか、<イメージVの意味というものを見ていきたいと思います。
 その前に、<イメージ>とはどういったものか、もう一度簡単に整理しておこう。
 <イメージ>とは何かの代わりでは決してない、紛れもない存在であるる。また同時に、何も意味してはいない。ただそこに、自分のなかに、あるものである。
 取り立てていっておきたいのは、<イメージ>というのは意識されて作られるものではない、ということだ。ケン・ラッセルのマーラーの伝記的映面『マーラー』(1974)のなかでこの天才作曲家はいう。「僕が音楽を選ぶのではない。音楽が僕を選んだのだ」<イメージ>はこのように無意識のうちに湧いてくるものである。
 ここでこのように言ってしまうのは、随分突拍子もないように思われるかもしれないけども、<イメージ>というものの性格は、各人誰もが持っている最も大切なもの、<生命>というもの、それと似ている。
 <生命>について考えてみる。自分にとって最も大切なものがこの<生命>というものだけども、しかしそれは同時に最も説明しにくいものでもある。事実、僕はここに生きている。生きているからこんな文章が書けるんだろうけども、これは生きているからこそできるというわけであって、少なくともこの文章を書くために生きているんじゃない.「生きるために食べるのか、食べるために生きるのか」なんて、よく酒落たりするけども、食べるために生きるなんて馬鹿なことがあるわけがなくって、やはり生きるために食べている。いくら理由らしきものを挙げてみてもこういう風でしかなくて、<生命>の決定的な理由なんてのは皆目見当らない。だから、僕が生きることを始めた、<生命>を持ったということ、それには意味らしい意味はないとしか言いようがないみたいだ。なんたって、僕の意志によってそれを始めたんじゃないから。僕の知っているのは、すべてその結果だ。
 だから<生命>そのものについて敢えて説明しようとするなら、「ここにあるもんだよ」ということになってしまう。こういうふうに見てみると、ともに意味がないけど、やはり存在しているという点で、<イメージ>とく生命>というのはとても似ている。いや、そうではなくて、全く同じものなのかもしれない。また、自分自身無二の<生命>があるからこそ、自分自身無二の<イメージ>が存在しているということで、この2つは深く係わっている。さらには、表裏一体だ、ということもできるだろう。デカルトの『我考える、ゆえ我あり』、ならぬ、「我イメージあリ、ゆえ我あり」。
 ここまで率直に言ってしまえばもう分かってしまうと思うのですが、僕の映像作品論の骨子というのは、とどのつまり、<イメージ>は<生命>に帰結してしまう、という所にあるのです。


イメージは本質を携えてやってくる

 さて、<イメージ>と<生命>というのは全く同じだ、ということだけども、たとえばフィルムに映像化された<イメージ>と<生命>とは全く違う。じゃ、どこが違うのかと言えば、一方は具象的で目に見えるものであり、また一方は目には見えないということです。つまり、目に見えるか見えないかの違いがあるわけです。ということは、形にならない<生命>を形として見るためには、形となり得る<イメージ>を目に見える形に具象化すれば、それでいいということになる。したがって<イメージ>の具象化というのが、<生命>を直接確認するための唯一僕たちに残された方法だということになるのです。
 作家が作品を創るとき、創造活動を行なうという。この「創造」という言葉の周辺を考えてみると、不思議と同じことが言える。英語の<創造crea-tion>には"神の天地創造"や、"宇宙"といった意味がある。なんにもないところに、神が天地をつくることというわけだ。だから創造活動というのは、僕らが神に代わって、天地創造を行なったり、宇宙を創ったりする活動を意味するということになる。しかしまた同時に僕らは、神によって創られた天地や宇宙にいる<生命>を付与された<被造物creature>でもある。じゃ、僕らの行なっている創造活動というのは何なのだろうかというと、それはいうまでもなく自らをもう一度創りあげるということだ。ここまでがさっきの、<イメージ>によって<生命>を確認する、というところにあてはまります。
 しかし、今度は神というのがある。神に代わって自らを創りあげることになっている.じゃこのとき、いったい何が起こるか。つまり、神そのものを感じるというわけです。神自身の持つ感覚を覚える。
 神なんていう大時代的な言葉を使ったけども、これは<始源>という言葉に置き換えても一向に差し支えない。つまり、何にもないところから天地創造さえも行なわれた<始源>、「始まり」っていうこと。またあるいは、「始まり」が起こるための意味、それ自体がもたらされている意味、ということで<本質>とさらに置き換えることも可能だ。そもそも物事というのはいくら進化しても、その<本質>的なものから離れるということは決してないからだ。もしそれから離れたとするならば、それは全く別なものになってしまう。そして<本質>には常に偉大なもの、つまり、根源的な価値が隠されている。だから、<イメージ>の具象化をする創造活動というのは、いうならばそこにある<生命>を自覚し、さらにその<本質>を知るという行為だ。

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2012.09.09

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(10)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
IV 光と影を写し撮るフィルム (IDE vol.40 1989:p101-102)


IV 光と影を写し撮るフィルム

映画は<光>だ

 映像における<イメージ>について具体的に示しておこうと思う。
 僕が少なくとも映画的に素晴らしいと思った作品、A・タルコフスキーの一連の作品(とりわけ、『鏡』以降)、『ミツバチのささやき』、『シャイニング』(スタンリー・キューブリック'80)、『四季・ユートピアノ』(監督・製作年不詳、NHK製作)、『ディーバ』(ジャン・ジャック・ベネックス '81)、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(ジム・ジャームッシュ '83)、『イレイザー・ヘッド』、『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』(ニキータ・ミハルコフ '76)等の共通点を挙げるとするならば、これらはすべて<光>を巧みに使った作品であるということです。僕はそれらの持つ<光>のくイメージ>というのを決して忘れることができない。
 <光>というのはフィルムに積極的に参加してくる。いや、闇違わないで欲しい。フィルムに撮るということ、また、スクリーンに映すということ、それ自体<光>との戯れなのだから。フィルムに撮るということは、ある事物を写すというのではなく、そこにある<光>をフィルムに写し撮ることであリ、またスクリーンに映すということはフィルムに刻みこまれた<光>を映写機の<光>によって再現することだ。フィルムがなかった頃、人は感じ取った<光>というものを必死で手中に収めようとした。ミレーの『落穂拾い』『晩鐘』『種まく人』を観るとそれは一目瞭然だろう。
 フィルムとビデオでは、メディアが違うと前にいったけども、まずこの<光>という点で端的に違いが出てくる。ビデオでは<光>を信号にして磁気に記録するため、直接<光>を拾うフィルムにみられる<光>のまろやかさというものはない。あくまでも刺々しくストレートにそれが記録されるだけだ。<光>に関してやや無機質がかったビデオという映像メディアは、その特質からは造形とその動きを捉えるというのに向いている。


<ムード>をつくる<光>

 スクリーンに映像として現われた<光>は瞬時にして印象付けられる。確かにその映像の中には、読み取られるべき造形、人物やその背景があるかもしれない。だけども見られるのは映像全体であって、しかもそれ全体を覆っている<光>というものがまず否応なく捉えられてしまうわけです。そしてその<光>によって、その映像の<ムード(雰囲気・気分)>は決定される。映像における<光>というのは、演奏における楽器の音色以上の要素を持っている。音色に注意されず楽器が選ばれ、そうして行なわれる演奏というのはまったくズサンで聴けたものではないけども、映像ではそれ以上なのだ。また、映像における<ムード>こそ、映像に描かれ得るくイメージ>の一つに他ならない。
 フィルムを回すということは、第一に<イメージ>として<光>を作り上げ、第二にしかもなお自然な<光>として、それを写し取るということです。『グッドモーニング・バビロン!』(バオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ、1978)には、「映画は光です。電球ではなくて自然の太陽の光が顔を照らすとき、観客も一緒に光を感じなくてはなりません」という素晴らしい台詞があるけども、この作品自体残念なことにその点においてまだまた不満の多いものだった。<光>を生み出すことは難しいが、しかし、これが成し遂げられたとするとその映像は95%は完成されたといっても過言ではないでしょう。
 フィルムにおいて<光>を生み出す。これはいうまでもなく、一つの世界を創りあげることです。
 実写映画とアニメーション映画との違いを挙げると、それは<光>ということに尽きる。実写映画では撮影現場で照明によリ創り上げた<光>をそのまま利用することができるけども、アニメーション映画では、画を描く際一枚一枚意識して<光>を与えなければならず、それは困難を極める。とりわけ日本でのセル画を用い、大量生産的につくられているような長編アニメーションでは積極的にこの<光>、つまり<ムード>を無視しようとしている。その結果生まれてくるのは、一見描写豊かに見えて、実はフラット(平ら)な単調で薄っぺらな画ばかりだ。だから、物語ですべてを片付けなければならない。そういった意味で、宮崎駿がいかに優れていようが、やはり彼の作品は精密に動く漫画のレベルでしかなく、直観的に訴えかけてくるものは何もない。彼の投げ掛けようとするものは、キャラクターやその動き、そしてドラマというオブラートに包まれており、それを観る僕は常に焦れったさを覚える。ここに僕が日本のアニメーションのやり方を嫌う理由がある。しかし、ソ連の切り絵アニメーション作家、ユーリ・ノルシュティンの『話の話』(1979)などになると話は異なってくる。そして、彼の緻密で詩情あふれる作品は、1年間にほんの10分ぶんだけ、創られる。

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2012.09.08

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(9)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
III 2つの印象(3) (IDE vol.40 1989:p99-101)


<イメージ>と<エモーション>

 ここでは2つの印象を与える非言語的なもの、<イメージ>というのを見てきたのだけども、その内の1つ“面白い・興味を注がれる"的なものは、確かに言葉に表せないものには違いないのだけども、しかし、本来<イメージ>と呼べるものではないのではないかということです。<イメージ>というものは、<センス>や<壮大な見せ物>に肩を貸すものではない、あくまでもそれ自体独立したものなのです。
 <イメージ>は“じんわりとした・心にしみわたる“的なものであって、それから<エモーション>が与えられるといったんだけども、<イメージ>と<エモーション>は次元をまったく異にしたものです。確かに<イメージ>からは常に<エモーション>が呼び起こされます。そもそも<イメージ>というのは1つの事実に他ならなくて、僕らはいつも自分外の対象に心を揺れ動かされているからです。だから必然的に<イメージ>によって<エモーション>がもたらされるわけです。じゃ、<エモーション>をそのまま与えればよいのかといえば、決してそうわけでもないのです。
 <イメージ>と<エモーション>の関係というのは、石が水面に投げられるときのあの様子に似ている。<イメージ>という石が心という水面に投げられる。投げられた石は水面に波動を起こして<エモーション>という波紋をつくる。この2つにはそういった関係がある。だから、<イメージ>が、"じんわりとした・心にしみわたる"的だといったのは、<エモーション>が広がっていっているというわけです。もし、その波紋をもう一度別の水面で再現しようとすると、どうすればいいでしょう。つまり自分の<エモーション>を真に別の誰かとわかちあうのにはどうすればいいのでしょう。そこで直接、波紋・<エモーション>をいくら再現してみせたって仕方ないことです。石を投げてやらなければ、結局何も起こらないんです。自分の波紋をつくった石そのものを再現して、再びそれを投げるのです。彼の持つ水面というのは、自分の水面とは違ったものかもしれない。でも、同じ石を同じ方法で投げ掛けてやるというのが、同じ波紋を起こす最良の方法なのです。そして、創り手に投げられた、その石<イメージ>にこそ最も大切なものが隠されているはずなのです。
 山野は『3/4ドキュメント』という作品をつくったのだけど、これは<エモーション>そのままがもとにされてつくられている。しかも視野の狭い、あくまでも彼の生きている現実に即した直接的な<エモーション>です。そして、この作品に描かれているのは、あれが欲しいのにお母ちゃんがそれを買ってくれないんだ、と駄々をこねている幼児のそれと似ている。つまリ、自分の<エモーション>をそのまま描くというのは、結局、自己愛でしかないということです。愚痴を書き列ねている日記というものが、読むのにいかに醜いかということだ。場合によっては、それに対して嫌悪さえもが催され得る。山野の映画というのは映像的<イメージ>に即した作品ではなく、どちらかといえば文学的要素の強い作品だ。ここでは映画的でない云々というのは置いておくとして、この作品でなされなければならなかったことはそれは単なる<エモーション>から脱するということだけども、そのために彼は比喩、中でも<メタファー(隠喩)metaphor>という形を取らなければならなかった。まるで愚痴のような告白ではなくて、俺はこうなんだ!と叫ぶんじゃなくて、冷静にそれの持つエッセンス・<本質>を全く別の新たな対象物に移し替え、直接伝えることが必要だった。ここにおいて、ものを見極める、つまり、投げ掛けられた石がどういったものかを見極める、そういった知性というものが自ずと要求されてくる。


今や映画には<イメージ>がない

 現在、映像作品といわれる映画が<センス>や<壮大な見せ物>、あるいは<エモーション>の表現である傾向が強いことに僕は懸念を感じずにはいられない。それはいうまでもなく、映画が同時代的な一過性のもの、あるいは、代償的なもの、そしてさらには、自己満足でしかないということを意味するからです。「映画を創ろうとするものは、既成の映画を多く観る必要はない。特に現在創られているものは観ない方がよい」、それは現在造られている映画作品の9割以上がそういった下らないものでしかなく、それに毒され続けながらも見ていくということをいかに回避しなければならないかということです。
 おそらく真に作品を創るためには、映画ほど商業的でない、映画以外の映像による芸術、絵画・写真等の作品を観賞することに頼らなければならないでしょう。それら作品から感受性と、本質をつかむ知性を養い、毅然(きぜん)として自分自身の<イメージ>をとらえていくことです。つまり、今や「映画を創ろうとするものは、まず何よりも、同じ視覚芸術である絵画・写真などに、慣れ親しむ」しか、映画を創る方法は残されていないのです。

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2012.09.07

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(8)

 映画を取り巻く状況って、随分と変わってきたのだろうか。少し前にクローズアップ現代で映画の上映システムがデジタル化されて、フィルムがなくなりつつある、というのが紹介されていた(書き起こしはこちらのサイトで)。スクリーンに投影してしまえば、デジタルか否かは判らなくなる。最近の映画の多くはビデオ撮りだし。TVのドラマが面白くなくなったのはフィルム撮りでなくなったから、という気もする。時代劇は比較的頑張っていた筈である。

 まず、手間が違う。

 たぶんどうでもいいような、この「手間」というのが以外に重要なものなのかもしれないと思っていたりする。


8mm映画創造の方へ 映画を超えて
III 2つの印象(2) (IDE vol.40 1989:p98-99)



静かな映像

 では、"じんわりとした・心にしみわたる"といったものはどうなのか? いうまでもなく、ここでは自分のもの・自分のすでにもっているもの、として受け入れるということが起っている。たとえば、エリセの『ミツバチのささやき』(1973)のような作品で、そのような感覚を受けると思う。この作品なんて、物語らしい物語はない。ただあるのは、創り手の自だけです。だから僕らは、否応なく創り手の目の中に引きずり込まれていく。また、この作品で驚かされるのは、15年以上前に創られたものだというのに古さを全く感じさせないことです。それは、<センス>というものが結局は視点の置き方のバリエーションを問題にしていて、無限の中から1つを選びだすという行為を行なっているのに比べて、この作品で見られるような創り手の目というのはユニーク・唯一的であり、その結果、普遍的なものになるからです。タルコフスキーの一連の作晶もまたそうです。
 このような作品では面白いことが起こる。タルコフスキーの『ノスタルジア』(1983)なんだけども、この作品では、実にさまざまなトリック・技巧が懲らされている。他の映画でそれが用いられていればあっと思わされるようなものが多くあるけども、この作品では決してびっくりしたりはしない。ただそれによって表現されているものがそのまま僕らの心のなかに静かに浸透してくるだけだ。だから、全くといっていいくほど技巧というものが気にならない。自然そのものでしかない。タルコフスキーは、それを見せ付けるためにではなく、空気のような雰囲気として醸し出すためにのみ用いているからだ。話によるとこの作品のオープニングの草原(?)の霧でさえ、スモークを焚いて作リ上げたものだという。
 ここで行なわれているのは、あくまでも作家と観客の静かな<エモーション(感情)>の共有、つまり、共感だ。またそれはあまりにも静かで、鮮明なことから<アニマ(息吹)anima>をみるといってもいい。こういった静かな感情に比べて、激しい劇的な感情というのはかなり形式化された操作によって引き起こされ得るものだ。たとえば頻繁に見られるが「悲しみ」という感情。これは、誰かを、特に主役格を殺すことによって、いとも簡単に観客に与えることができるだろう。だから「悲しみ」というのは腐るほどそこいらに転がっている。激しい単純な感情を与えることはたやすいけども、実際の体験から受けるような、ほのかで微妙な、あの<エモーション>というものを他人に与えることは至難を極める。エリセやタルコフスキーは見事にそれを成し遂げているのだ。またそういった<エモーション>は普通体験を通してしか得られない。だから、観客の僕らがそれを共有するというのは、僕らがひとつの疑似体験、作家に対する追体験をしたということになるだろう。したがって先程の"面白い・興味を注がれる"という感じのものが感覚的で一時的に新鮮でしかないのに比べて、“じんわりとした・心にしみわたる"的なものは体験そのものであり、いつまでたっても、また、いつの時代になっても、誰にとっても新鮮なのです。


スペクタクルとSFX

 映画の醍醐味といわれる<スペクタクル(壮大な見せ物)spectacle>もある意味では前者の類に入るだろう。<壮大な見せ物>というのは、非日常的なもので、だからこそ普通ならば一生かかっても見られない、そんな光景を目の前に再現することに価値があるわけです。ここで注目してほしいのはそれが客観的事実・出来事の再現であるということです。いったんフィルムにそれを撮ってしまえばいとも簡単に誰にでも、何時でも見られる。しかし、本当は実際にそれを見ることができるのを望んでいる。結局<スペクタクル>の価値の多くは、現実の代用として見い出されているのです。また、スペクタクル的な様相を成していたとしても、後者的な要素、つまり<エモーション>が加わればスペクタクルとは感じない。それは少なくとも<壮大な見せ物>ではないからです。このことは『ノスタルジア』のラスト・シーンを思い浮べてみればよく分かると思います。
 一昔前のスペクタクルのブームに取って代って現われたのが、<SFX(特殊視覚効果)special effects>というものです。<SFX>というのは<スペクタクル>と一見異質のもののように見えるかもしれないけども、根本的なところにおいては同じものをみている。その違いというのはその視点的なものにあって、何を<壮大>と見なすかというところの違いにある。<スペクタクル>が見た目そのままのスケール(規模)的な壮大さを目指したなら、<SFX>はさしあたって、よりミクロ的なディテール(細部表現)に壮大さを見出だしたということになるでしょう。というのは、ディテールというのは、それに固執すればするほど無限の広がり、壮大さを持ってくるものなのだからです。したがってディテールとスケールというのは必ずしも無関係なものではない。いずれにせよ<SFX>が<スペクタクル>同様、今まで映画にはなかった、また日常においても見ることのできなかった<壮大な見せ物>というものを目指しているということには間違いないのです。

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人間ドック受診する

 年に一度のこの日の前のひと月間は大人しい生活を送ることにしているという人(女性)もいる人間ドックを受けてくる。

 結果的に云うと今年も素敵な結果でした。もちろん、いい意味で。

 昨年は体調を整えるためにサプリメントを取っていて、暮れあたりからやめてしまっていたのだけど、貧血も異常なし。鉄のサ.プリを食べていたので、それまでの貧血注意がなくなったのだとばかり思っていたのだが、今年は更に良い数字になっていた。

 空腹時血糖値は相変らず標準値をやや超えたところにあったが、この5年間変らない数字であるし、過去1~2ヶ月の血糖状態を示すヘモグロビンA1cは正常値なので、体質だと思って差し支えない、という医師の判断だった。しかし、これだけが引っかかるので悔しい。

 腹回りが細くなったと思ったら、腹囲が74cmで対前年で2.5cmの減。体重が52.9kgになっていたのにはさすがに参った。身長173cmでは、かなりガリの部類に入ってしまう。これは完全に20代の頃の体型である。5年くらい前にウエスト85cmで作ったスーツは完全に直しを入れないと着られない。昔作ったスーツもまだ箪笥にはあるのだが、明るい色なので、ブラックスーツが流行の現在ではかなり浮いてしまいそう。

 ちなみに受診したのは人間ドッグ専門の機関で、一般的な総合病院で2日間かけてするのと同レベルの検査が1時間ちょっとで終わってしまう。この機関は受付順で検査を進め、早い番号になると待ち時間が少ない。検査は8時半から始まるのだが、検査フロアの会場は8時である。もちろん、この時間に行くと遅い訳で、今日は7時35分に到着して、ようやく3番だった。

 検査そのものは9時40分に終わって、10時に食堂に行き、10時半から提供される昼食を食する。11時15分くらいから検査結果に基づいた医師の診察をうけて、着替えや費用の支払を済ませて同40分には完全に終了。こんなに楽なドックはない。

 今年は順調にバリウムも出たし、めでたしめでたし。

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2012.09.06

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(7)

8mm映画創造の方へ 映画を超えて
III 2つの印象(1) (IDE vol.40 1989:p96-98)



III 2つの印象


面白い・興味を注がれる映像

 映画やその他、映像と呼ばれるものを観ていて、それには大まかに分けて、少なくとも2つの異なった印象を与える映嫁<イメージ>があるように僕には思えるわけです。とはいっても、この場合の<イメージ>っていうのは、さっきからいっているような言語の置き換えではないもの、という、それだけの条件においてですけど。
 つまり、僕には"面白い・興味を注がれる"的なものと、"じんわりとした・心にしみわたる"的な2つの<イメージ>が映像にはあるような気がする。そして、その他の映像というのは、おそらく(役者の演技・状況等の)単なる説明にしかすぎないといっても差し支えないでしょう。まあ、自分の鈍さのため、その何かを感じ取られないということもある、とは思うけども。
 それで、前者の"面白い・興味を注がれる"ようなものとしては、MTVなどでのプロモーションビデオに多くみられるような映像が傾向のある一端として最も的確に当てはまることになる。つまり、それらの多くは、目まぐるしいカッティング、意外なアングル、さまざまな撮影スピードの頬み合わせ、きらびやかな色彩などを、その主な要素としている。そして、それを観ている僕らは、ただその映像の流れてゆく様を<ショック(衝撃)>として受けながら、観てゆく。そこが、この感覚、<イメージ>の要です。


ショックを与えるセンス

それらを"面白い・興味を注がれる"と感じるのは、いうまでもなくその衝撃のためです。観ている僕らは、その映像によって、たとえば<エモーション(感情)emotion>の共有をするというのでは必ずしもなく、今までにない新しいパターン、敢えて言うなら"ニュー・バランス"とでもいうか、そういったものによるショックに絶えず揺れ動され続けるということから心地よさを与えられ、その結果、その映像というのは、奇を衒ったものであったり面白く興味を注がれるものとなる。それらは常に<ショック>となり得るニュー・バランスを備えているわけなんだけども、実際僕らが魅かれているというのはその<ショック>を形づくっている無機質的な事物的・デザイン的なな要素、つまリ、<センス>だというわけです。この"面白い・興味を注がれる"映像をつくったり、また、それを感じたりするためには、必然的にこの<センス(バランス感覚)>というものが必要となってくる。
 オーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1941)というのは、いうまでもなくその<センス>による作品の超代表的なものです。この作品、内容は実に陳腐、しかし、ここまで名声を得てきたのは、この<センス>・新しいバランス感覚に基づくそれまでになかったモンタージュ技法によるショッキングな表現形式のためなのです。当時映像革新なんていわれ、今でも一部では映画史上最高傑作といわれているこの作品なんだけども、あの目まぐるしいモンタージュ技法なんてのは現在すでに多くの作品に受け継がれているもので、さらにはこの作品以上のものが輩出されている。まあ、その最高傑作というのが、あのびあ入選の8mm映画『いそげ、プライアン』(小松隆志、1985)だったりするわけです。そんなふうでようやく近年になってこの『市民ケーン』を観ることになった僕にとっては、残念なことにこの作品、何の感動も覚えられない過去の遺物でしかないという感じのものでしかなかった。
 具志堅の創った『PROTOTYPE』もまた、この<センス>というものを持った作品です。この場合、ウェルズのような表現技法における<センス>ではなくて、役者の演出に関する<センス>というもの。もっともこの作品に見られる<センス>そのものは残念ながら決して彼のオリジナルじゃなく、CFとかですでに随分馴染みあるものだ。この作品や1部のCFの持っているような感覚が初めて形となって現われたのは、おそらく森田芳光の『家族ゲーム』(1983)辺りからでしょう。彼の作品の面白さ、つまりあの奇妙な間の引き起こす“ズレ現象"とでもいうべき<センス>が認められ、巷にこの<センス>というのが蔓延し始めたのは、少なくともここ5、6年のような気がする。しかし、この“ズレ現象"というのは、実際のの日常ではまず見られないというか、さしあたって感じられないものだ。無理に見出だそうとすれば、まあ、不可能じゃないけども。ということは、それは森田の手によってつくりあげられ、そして僕たちが感化されたというわけです。


センスは一過的

 ところで、<センス>っていうのは、「彼の服装のセンスはいい」とか日常生活によく使われる言葉だけど、服装における<センス>というものを見てみればよく分かるように、昭和40年代には確かに<センス>あるといわれたものが、今日では信じられないほど<センス>のない、いわゆるダサイものになっていたりする。映画でも同じことがいえて、少なくとも僕にとっての『市艮ケーン』なんてそうだ。これらの事実から見られるのは、<センス>を担っているバランス感覚というものが、いかに時代を反映しているかということです。<センス>というものは常に、時代の微妙な価値観と共に歩んでいる。また逆にこの<センス>によっても、時代の価値観が創られてゆくこともある。ファッションっていうのは、ある有名デザイナーの<センス>にしたがってつくられたものによって、その年のモードが決められていったりする。だから、<センス>で創られだものは、必ずしも百年後にさえも通用するという普遍的なものではない。一過的なものです。余談になるんだけども、殊にこのファッションに関するかぎり、今ではもう半年サイクルという短い期間で替わっているなんて、聞きます。したがって、"面白い・興味を注がれる"というのは、言い換えれば"痙攣的"であるともいえる。それは痙攣するように広まっていくんです。で、治まれば何ともなくなってしまう。またこの<センス>というのは、新たに価値をつくるというものであるいうことは明らかだ。ここで注意しなければならないのは、自ずと価値が生じるというのでなくて、価値を持ったものとして作り上げられるということです。だから、社会傾向の認容の中においての存在で、認められなければいつまでも意味はないということになる。また、森田についてなのだけども、彼の後自身の作品に関しての発言「強いて言えば、自分の技術のメッセージでしかない。(中略)オレのテクを見てくれって感じですよ」も忘れてはならない。

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2012.09.05

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(6)

 論文と云えば、大学へ行くと法学部にでも行かない限りは、絶対に書かされるのだが、1月の半ばには提出しなければならない卒論のテーマを冬休みが入る前まで考えてなくて、文系でありながら、研究室の資料室に2年年下(映画に命をかけてしまったので2年留年してしまった)の後輩とふたりで泊まり込んで書いた。論文は期限までには完成せず、提出先の学生部には表紙のみを提出し、後日、教授に本文を引き渡した。とっとと、学生に卒業して貰いたい教授には当たり前の手段のようだった。

 当然、論文は大した内容ではなかったのだが、"てにをは"をひとつだけ訂正しなければならないが、とにかく、日本語として読み易い文章だった、という評価を貰った。言語の専門家が判りやすいというのだから、そのあたりは立派なのだろう。学問的には認知科学の見地からの言語解析をやりたかったのだが、うちの2人のセンセはチベット歴史言語やら、日本・ハングル比較言語なんてのが専門だったから、哲学教室と合同でやった演習で取り扱ったソシュールを論文のテーマにするくらいが精々だった。


8mm映画創造の方へ 映画を超えて
II 非言語なる映像(2) (IDE vol.40 1989:p94-96)



言語を映像に置き換える<モンタージュ理論>

 再び<モンタージュ理論>にもどろう。僕が<モンタージュ理論>に対して懸念を持ったというは、その方法に著しくこの言語的な<コード>・意味作用を必要とするする傾向があるからだ。
 まず<モンタージュ理論>というのは、言語でいう<文法>から入っている。もっとも、言語の<文法>体系とは異質な規則のではある。言語での<文法>というのは、主に<パロール>と<バロール>の係結び、つまりセンテンスでのお互い掛け離れた<パロール>がどの<パロール>と関わるかという、関わりを制約する性質が強く、それが語順なりとなって現われる。それに対して、連続的に知覚される映像というのは決定的なセンテンスを持たず、その直接隣接するくショット>どうしの結合性にしか制約を行なえない。だから<モンタージュ理論>による<文法>というのは、<ショット>の直接結合規則だともいえる。この場合、各々の<ショット>、つまり言語でいう<バロール>がそれを遵奉しなければそれ自体の持つ意味はともかく、さらには全体的に混乱を起こし何らの意味もなさなくなることもある、ということにおいてはまったく同じである。
 たとえば、<対照>のモンタージュというものがある。これは、あるものの性質を強調して見せるために、それと相対する性質のものを引き合いに出すというものだ。その具体的な例として、男の貧乏さを印象深く強調するために、次の<ショット>に豪華な衣装を施した富豪を持ってくる、というのが挙げられるだろう。つまりこのように、<モンタージュ理論>というのは、何かを示すためにまず、<ショット>と<ショット>の結合に<対照的な>という制約をおこない、同時に、2つのそれぞれの<ショット>が結合に値するための一義的な意味合い<貧困>と<裕福>を持っているということを条件立てている。
 言語そのものにおていも、その<パロール>があまりにも多義的であってはならない。-意味するもの-があまりの多さの-意味されたもの-を持つようになれば、それは自ずと-意味するもの-として機能しなくなるからだ。-意味するもの-と-意味されるものは、一対一の対になるのがもっとも好ましい。言語と同様、<モンタージュ理論>でも、その<ショット>の持つ意味というものは、単純化され、多くのことを含まないということが自ずと要望されてくる。
 <モンタージュ理論>というのは、この<コード>性に映画の重要性、映画の映画たるゆえんを見出だす傾向がある。しかし、この<コード>というものはあくまでも、言語的なアプローチによるものである。したがって、<モンタージュ理論>というのは、言語を映像に置き換えようとする単なる形式主義的技術論理でしかなく、必ずしも映像そのものの持つ、持ち味を対象としているのではない。


象徴的映像

 これらのことは同様に、僕たちの間で「シュールな」といわれがちな表現においても多く見られることだろう。もっともこの"シュール"という言い方には疑問を覚える。これは本来、絵画などで言われる「抽象的」に値するものである。"シュール"というのはおそらく<シュールレアル(超現実的な)surreal>の略で、映画の映像は、現実から切り取られたものという前提で、「抽象的」なものは現実に存在しない、ということから用いられているのだろうと思う。これは、あくまでも、<シュールレアリスム(超現実主義)surrealisme>とは異なっている。この主義は、「自動書記などによって理性を介せず表現したものに真実がある」としたもので、1924年にフランスで起ったものだ。撲らのいう「シュール」的作品において、事実上<象徴>という形をとっているものが多い。
 身近な例として、内田の撮った『STREET』のワンシーンを挙げてみようと思う。
 女の子と別れた男が、夢を見るくだりだ。一本道、男とその女の子が歩いている。突然駆け出す女の子。追っ按ける男。ようやく追い付き、女の子の肩に手をやる。が、いつのまにか、誰かわからぬむさくるしい男に変わっている。これは他愛のない<象徴>である。女の子が逃げるというのは、自分の手から難れたということであり、追い付くと、そこにいるのは別の男だったというのは、追い掛けても追い掛けても彼女自身には追い付くことができないということを図式的に示している。これなどは、単なる謎解きの類いの<象徴>で、「謎」を字に書くがごとく、言葉を映像に置き換え、迷わしているのにすぎない。
 「シュールな」表現においては、このような<象徴>が頻繁に見られる。残念ながらデビッド・リンチ監督の『イレイザーヘッド』(1977)でさえも大きな意味(全編を通しての)では同様なことが言えるだろう。
 いかにも<象徴>的なという表現といわないまでも、これらのことは多く見られる。たとえば、映画においてよく現われる「灰皿に盛られたタバコの吸い殼」などがその具体な例だ。これは、タバコを吸っている人間がその場に長時間いたことを端的に示している。


見失われがちな視覚的印象

 なぜこれらのこと、「映像の言語への組み替え」が起るのかといえば、ものを考えるという場合に限らず、ものを感じるという場合においても、それをすぐに言語に置き換えるという行為を僕らは普段行なっているからだ。それは、感じたことを感じたままでは放置できず認識というものに組み込んでしまうことによる。何かを心の中に留めておくというのに、言語という器は非常に便利なのである。ただ、時たま経験する強烈な生々しい感覚的体験だけが、それを純粋な感覚として保存されるのみだ。たとえば、夢のように。眠っている間に見る夢は、意識してそれを見ることができないというだけ感覚的だ。フロイドの言うようにそれは何かの象徴かもしれないが、それよりもその夢を実際に見る僕らにとっては、夢を1つの感覚的事実として受け入れることの方がはるかに大きい。そしてその結果夢を語り得ないもどかしさを僕らは覚えずにはいられない。
 映像を映像として表現するためには、映像で観るということを常に行なわなくてはならないだろう。自分の目の前に広がっている映像をあくまでも感覚的に直視し、受け入れつづけること。
 映画の理論は今日でも発展し続けている。<モンタージュ理論>のような、映画の表現性を問題とする「映画学」から、さらに映像そのものの特性に対象を移した「映像学」として、映画が論じられ続けている。このことは、岡田青著『映画学から映像学へ 戦後映画理論の系譜』に詳しい。
 しかし、残念なことに、それらは、コミュニケーションとしての映像、意味するものとしての映像として論じられるのみだ。いかにして、映像は意味し得るのか? いかにして、映像は読まれ得るのか? 何かの道具として、映像はみられている。再び言うけれども、常に撲たちの目の前に映像<イメージ>は常に広がっている。これは一体何なのだろう? また、この僕らの視覚を通しての映像<イメージ>は道具となり得るのだろうか? しかし、記号としての映像でなく、表裏一体の現実・真実(事実ではない)としての映像<イメージ>があるということも忘れてはならない。そして、この映像<イメージ>に対して、その内容を僕らは何も論じることはできはしないのだ。ただただ無力である。つまりこれらの理論は、論じ上げ手中に治めることのできない映嫁<イメージ>を信じないもの、認めたくないもののために存在している。そしてさらに彼らは、僕らの持つ人間的なものまでも排除してしまおうとしている。

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2012.09.04

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(5)

 何事も突き詰めて考えようとすると難しいなと思う。芸術論とかやろうとすると、深みがあまりにも深すぎて、素人が考えるべきものではないような気がする。

 20数年ぶりに読み直して、論の浅いこと、拙いこと。そして、文章のスタイルが今もそんなに変らないことにムカつく。


8mm映画創造の方へ 映画を超えて
II 非言語なる映像(1) (IDE vol.40 1989:p92-94)


II 非言語なる映像


<モンタージュ理論>という教科書

 映画を初めて創る場合、たいていの人は、映画の撮り方なるテキストを見るだろうと思う。その手のガイドブックを買い込み、映画の作り方を研究する。それは然るべきことだ。よっぽど高校とかでフィルムを回していないかぎり、いくら先輩の映画製作に就いたとしても、カメラのこと、フイルムのこと、編集のこと、その他製作の段取リを自分の手で、やることとして具体的に実感として何も把握できていないからだ。実際、僕もそうして来た。
 困ったことに、この手の本は、御丁寧に章を割いて、映画の製作方法という他に「映画の理論」なんて言うものまでも解説してくれている。また、そういう場合に限って扱われる理論というのが<モンタージュ理論>という奴なのだ。正直なところ、この理諭に対して、僕は懸念を抱いている。この<モンタージュ理論>というものをもとにして、今までいってきた映画の独自性について、もう一度考えていこうと思う。


<モンタージュ理論>とは

 <モンタージュ理論>の概略を言うと次のようになるだろう。
 映画をというものは、一つの<ショットshot>(切れ目なしに連続的に撮影されたフィルムの一断片。簡単に言えば、監督の「スタート」の掛け声から、「ストップ」の掛け声までの間に撮られた一つの映像のこと)で創られるということはまずなくて、複数の<ショット>からでできている。言い換えれば、映画というのは、<ショット>を<モンタージュ(編集)montarge>(撮ったフィルムをくっつけ合わせること)することによってようやくできているといえる。
 モンタージュを行なうということは、アングルとかサイズの違う異質な<ショツト>2つをつなげることであり(そもそも同質な<ショット>は分断されて撮られる必要は全くない)、しかもその組合せ方によってはその<ショット>に描かれている以外の意味がもたらされるというのだ。
 たとえば、何かを見ている婦人の<ショット>があるとしよう。その次に、愛らしい子供の<ショット>をモンタージュしたとする。すると、婦人はいかにも優しく子供を見ていたという印象を受ける。しかしまた、子供の<ショット>の代わりに、テープルに並べられた豪華な料理の<ショット>を持ってくると、婦人はいかにもそれを心待ちにしているという感じを受ける。次にくる<ショット>によって、その<ショット>はいかに意味が変わってくることか。これはあくまでも1つの例だけども、モンタージュすることによって絵自体にはない数々の新たな意味をもたらすことができるというのだ。つまり、映画は、<モンタージュ>による芸術である。それが、一般的な<モンタージュ理論>というやつだ。
 この<モンタージュ理論>というのは、20年代後半ソ連で、クレショフや、エイゼンシュティンによって唱えられた。彼らがそのような<モンタージュ理論>を唱えたのは、サイレント映画に一種もどかしさを覚えたからに違いない。事実、映画が<トーキーtalkie(←talking picture)>になったのは1926年で、作品としては翌年『ジャズ・シンガー』がアメリカで音のでる映画として初めてスクリーンに登場した。このトーキーの出現と、<モシタージュ理論>がほぼ同時期に現われたというのは決して偶然ではないだろう。この二つの差というのは、おそ1のらく科学技術の差におけるものだ。前にも言ったように、言葉があればより適確に言えることも、映像だけでは言い表わしにくい。だから、サイレント映画でも、少しでも具体的にこれこれと言い表わせる方法を<モンタージュ理論>に求めたのだ。
 聞いたところによると、<モンタージュ理論>というものは非常に良いものじゃないかという印象を受けるかもしれない。映画は映像だというが、<モンタージュ理論>というのは映像に秘められた力を扱ったものじゃないか、どこが悪い。ぞんな風に思われるかもしれない。以前エイゼンシュティンの『戦艦ポチョムキン』(1925)という<モンタージュ理論>の権化とも言われる作品の一部(「オデッサの階段」という有名なシーンをたった5分程度だけど)を見たことがあるのだけれども、恐いぐらいにぎくしゃくした押さえ付けられるような印象を受けた。たしかに、ここではこれこれと言っているというのがわかる。しかし、なんというか、説明的でありすぎるのだ。ある種、言葉以上にそれは具体的で、僕にそれを押付けてくるものだった!


言葉の溝造

 ここでちょつと言語学的なことを勉強してもらおうと思う。僕らは普段、<パロールparole>、つまリ、語・単語というものを使って、コミュニケーション・伝達をはかっている。この行為、および、その能力を<ランガージュlangage>と呼ぶ。この<パロール>は記号的な様相を見せる。つまり、<バロール>の構造は次のようになっているわけだ。
 <パロール>はある音を持っている。たとえば、「イシ」のように。これは、あるものを-意味するもの<シニフィアンsingnifiant>-といえる。つまり、-意味するもの-としての「イシ」というの音の背後には、「地面などに転がった固い小物体」という-意味されたもの<シニフィエsignifie>-がある。したがって、これらの<パロール>というのは、<シーニュ(記号)signe>【自ら別の現象を告知したり告げたりするもの】的だといえるだろう。
 また<象徴symble>というものがあるけども、これもまた<パロール>の-意味するもの-と-意味されたもの-の意味の関係がよリ構造化されたというだけであって、全くその関係が崩されたというものではない。たとえば、「共産主義」というものがある。それに基づく社会は革命を起こさなければ成立しない。革命ではかならず流血がある。したがって、共産主義は血の色「赤」で象徴される。これは、

 共産主義→革命 革命→流血 流血→赤 / 共産主義→赤

という表層での移し替えが見られるように、意味においては全く無関係でなく、連想的な意味関連を持っている。また、「赤」という物体を持たない抽象的なものに差し替えられた分、「共産主義」というもののエッセンス・本質が激しく直観的に言い表わされるという結果になる。<象徴>化するというのは、本質のみを抽出し、-意味するもの-と-意味されたもの-の結合を強くするということである。
 また、一個一個の<パロール>に関しては分節的・断片的でしかなく、これだけでは複雑な意味は持ち得ない。「イシ」だけであれば、「地面に転がっている固い小物体」だけしか言い表わせない。よリ多くのことを言うためには、これらの<パロール>をさらに組み合わせる必要がある。日本語の例でいうと、「イシ」と、主語を示す格助詞「ガ」、物が存在することを示す動詞「アル」を組合せて、「イシ・ガ・アル」となり、「石が存在している」ことをようやく示すことになる。
 その時、<パロール>を並べる秩序・規則というものが必要となってくる。それが大きな意味での<文法gramer>である。<ランガージュ>がある言語を成立させるためには、<バロール>と、それを並べることのできる<文法>が必要だ。また、それら2つの総体を<コードcode>という。つまり、この<コード>というのが、言語的意味作用を担うのである。

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2012.09.03

710,000番目のお客様は..

 15,000番目、20,000番目、25,000番目、30,000番目、33,333番目、34,567番目、40,000番目、44,444番目、50,000番目、55,555番目、60,000番目、66,666番目、70,000番目、77,777番目、80,000番目、88,888番目、90,000番目、99,999番目、100,000番目、101,010番目、111,111番目、123,456番目、130,000番目、131,313番目、133,331番目、140,000番目、150,000番目、160,000番目、170,000番目、180,000番目、190,000番目、200,000番目、210,000番目、220,000番目、222,222番目、230,000番目、234,567番目、240,000番目、250,000番目、260,000番目、270,000番目、280,000番目、290,000番目、300,000番目、310,000番目、320,000番目、330,000番目、340,000番目、350,000番目、360,000番目、370,000番目、380,000番目、390,000番目、400,000番目、410,000番目、420,000番目、430,000番目、440,000番目、450,000番目、460,000番目、470,000番目、480,000番目、490,000番目、500,000番目、510,000番目、514,926番目、520,000番目、530,000番目、540,000番目、550,000番目(560,000番目は忘れてました)、570,000番目、580,000番目、590,000番、600,000番、610,000番目、620,000番目、630,000番目、640,000番目、650,000番目、660,000番目、670,000番目、680,000番目、690,000番目、700,000番目に次ぐ84度目のキリ番プレゼントで、今回は710,000番のキリ番です。

 読書グッズP-hookのプレゼントを希望される方はこの記事の "1万5千" を "710,000" に読み替えて、気に留めておいてください。

 肝心のカウンターですが、タイトルの右上に灰色で非常に判り難く居ります。シンプルなのが好きなので、カウンターはこのくらいの存在感があたしの好みです。

 なお、カウンターを気にしていなくても、キリ番を踏んだ人にはメッセージが表示され、見落とすことはない設定を施しています。

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8mm映画創造の方へ 映画を超えて(4)

 四半世紀前の原稿なので、当然、電子データは存在しない。冊子をOCR変換して掲載している。

 前使っていたPCにはOCRソフトが入っていたんだけど、今使っているPCにはインストールしていない。androidのスマホにはOCRソフトが入っているのだけど、スマホのカメラで撮った原稿ではやはり綺麗ではなく、PCに接続したスキャナーで画像を取り込み、ファイルサーバーサービスにファイルを保管。そこからスマホでダウンロードして、OCR変換。テキストファイルとしてサーバーに保存して、PCで手直し。そして、ブログに掲載なんていうことをしている。

 なんたか面倒そうな作業をしているように思われるかもしれないが、それ程でもない。スマホのOCRの変換率85%くらい。悪くはない。


8mm映画創造の方へ 映画を超えて
I 映画の始源「映像」へ(3) (IDE vol.40 1989:p91-92)



不可侵的な映像=イメージ=

 僕の描きたいといっていた"自分自身の頭の中にある世界"、っていうのはかなり抽象的な言い方なのだけども、これは"僕自身の視覚という感覚による世界"というものであって、またこれはさらに<イメージ(心象)image>という言葉に言い換えてもいいだろう。
 つまり、僕は、僕の持っている視覚感覚による不可侵の世界を描きたいと思っていたのだ。しかし、ここで描けるというのは、それを創る場合自分の感覚、唯一それだけだ。他人の感覚なんかじゃ決してない。他人の感覚ってのはそもそもわかりっこあるはずないから。映画っていうのは、結局は誰かの視覚的感覚世界をフィルムの上に置き直したものにしかすぎない。
 また、僕の映画を創るという喜びは、一つ、どこまで完璧にそれが再現できたかによる。自分の感覚だから、他人にはわからないかもしれない。もっとも、分かってもらえるに超したことはないけど。だけども、分かってもらえない、もらえるという問題を云々いう前に、まずは、それを表現し得たかという問題が待っている。それを解決できていないうちは、他人がどういおうと、自分の感覚となっていないから何ともいえない。たとえ、共感しましたといわれても、自分のそれじゃないから、何と答えていいのかわからない。ただ未完成ですとしかいいようがない。よい映画を創るためにはまず自分自身に厳しくなくてはならない。
 再び、ルーカスのことに戻るんだけれど、僕には残念なことにルーカスが何を考えているのかわからない。彼は、寛徳に彼が持っている奇抜なアイデア(おそらく誰にも受け入れられるような表面的なもののような気がする)で映画を創れといっているのだろう。こうやれば絶対面白い、多くの人間にウケるぞ。そうなれば、映画というものは単なる商品でしかなくなる。そこには主体性のカケラもない。大衆によって消費されるためだけにそれは創られる。そして、それはあくまでも時代背景のによってしか存在し得ない。また、彼は映画を信じていないだろう。映画の持っている真の力というものを見定めてはいない。
 僕の思っている映画というのは、ある人間から真に発せられた確かな不可侵の<イメージ>が映画・映像的に相応しく描かれたものであって、さらには普遍的な人間性から発せられたものとして永遠のものになり得る、というものだ。あらかじめいっておくけども、<イマジネーション(想像)imagination>と<イメージ>はまったく違うものだ。<イマジネーション>には、空想という意味も含まれ、意識的.理性的なものが関与してくる。ここでいう<イメージ>は、無意識的に現われたものだけをいっている。


その他の映像媒介

 <動く映像moving picture>による芸術形式には、映画の他にも主なものにビデオなどがある。
 この二者の違いというのは、おそらく、再現形式(一方がスクリーンで、また一方はブラウン管を通してである)というより、再現される映像そのものの性質にあると思う。それは光学的素材か、磁気的素材かの材質的な違いによるもののだ。映画・フィルムによる形式では劇場効果(同時体験)というものがよく問題とされるけども、それはあくまでも産業形態による副次的なもので、まずは素材的特質それ自体をみる必要があるだろう。
 また現在では、映画のハイビジョン(heigh denfinition television)化が進みつつある。根本的にはフィルムに頼らず、撮影にはビデオを用い、それをフィルムに落とし映画館にかけるとというやリ方だ。したがって、映画館で観られるものが全てフィルムによるものだというのは間違いになりつつある。それがダビングされるにしろ、されないにしろ、フィルムで撮ったものこそがいわゆるフィルムによる作品なのだ。3D映画というのが一時期はやったが、これもまたフィルムとはまったく別のメディア・表現媒介と考えた方がいいだろう。これらは、同じ画集に収められた、油絵と水彩画の関係というものに似ている。
 これらの媒介に関する諸問題は数多くあるけども、今回はこれに関してはあまり触れず、まず映像そのものの創造をみていこうと思う。

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2012.09.02

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(3)

 この文章を書くにあたって意識したのは、講談社新書あたりのやや軽めの新書。軽く情報を取り入れるのには、非常に好ましいスタイルだと思う。


8mm映画創造の方へ 映画を超えて
I 映画の始源「映像」へ(2) (IDE vol.40 1989:p89-91)



暖昧な言葉

 言葉で何かを語るというのには、思った以上に半端なところがあるんです。僕らは、他人に語る、つまり話すわけですが、こういう場合、常にある何かについて語しているわけですよね。つまり、その事柄について感じたことなり、考えたことなり、言葉でもって語っている。僕は、言語学というものを専攻しているんだけども、言葉というものについて深く知れば知るほど、言葉に対して不信を感じるよになった。つまり、言葉っていうのは普通思われている以上に暖昧なんです。
 たとえば、誰かが"これは辛い"というとする。「辛い」というのは味覚の表現なんだけども、塩をなめても、また、唐辛子を食べても、なぜか同じ「辛い」。塩と、醤油とでは少しは近い辛さだという気はするけども、でもその辛さと、唐辛子や、タバスコの辛さとは全く違うような気がする。さらにもっと厳しくいえぱ、塩も、唐辛子も、醤油も、タバスコも、全く味は違う。なのに僕らはこの味全部を「辛い」といわなくっちゃいけない。
 つまり、言葉は、これはこれだ、という完全な具体性を必ずしも持っていないわけです。あくまでも、広範囲のものを総括したもので暖昧なものでしかない。言葉で語るということは、必ずしも普段僕らの思っているほど完璧じゃない。取り合えず、僕らはこれまでの自分の経験から得たその言葉の持っている意味と、今話している彼が彼自身の経験で得た意味との共通点というのを拠り所にして言葉によるコミュニケーションをはかっている。だから使われている言葉の意味の重みというのは皆違うわけ。こうやって実際に僕は話をしてるんだけども、僕の言おうとしていることは残念ながら何割かしか伝わっていないだろう。それは、これが言葉を使っているからです。まずは言葉は完璧という幻にだまされてはダメです。


いつも観ている映像=眼=

 そこで、映像は具体的に何も語ってくれない、というわけですが、まァ、"語る"っていうのには抵抗を感じるから、"表現"といいなおすけど、映像は具体的に何も表現してくれない。これは、こうこうでこうなんだ、とはいってくれない。本当にそうなんだろうか? そこをまず考えてみようと思います。
 "映像"っていうと何か特殊なことのように感じるけども、僕らには眼という視覚器官があって、常に何かを見ている。見たもの、それはすでに映像じゃないかな。事実、僕らの眼にはレンズの役目をはたす水晶体っていうのがあって、それを通して光が入ってきて、スクリーンである網膜に像がつくられている。その像を僕らは感じている、つまり観ている。これしか観ていない。つまり、僕らは常に映像というものを見ているわけです。変な言い方だけど、僕らは常に映像を通しで何かを見ている。もっとも、それは映画じゃないけども。
 この映像、たまに変なことを起こす。たとえば、あたり前の自分の家なんだけども、合宿とか、旅行とか、なんかで長期間空けていて、久し振りに帰ってきたとする。何だか異様な感じがする。自分の家じゃないみたいな、しっくりしない不思議な感じに辺りが映ったりする。また親しい人間と、そうでない人間とでは見え方が違う。僕なんかは、親しいよく知っている人間は小さく、そうでない人間は少し大きく見えたりする。尊敬しているしていない、ということに関してでは、それとまったく逆のことが起こる。そんなことってあるでしょう。
 いつもすぺてが同じに見えるということはないはずだ。おそらく、精神的な心理的な後ろ盾があって、そんな風に感じるんだろうけど、でも、こういう場合の映像というは、きわめて具体的なもので嘘隠しのないものじゃないだろうか。実際、そのように感じた、見たんだから。そういうのって、否定のしようのない、具体的なものそのものという気がする。これは、何かを語っているということだ。こういうのは、映像ででしか、人に説明することはできない。
 つまり、映像っていうのは、概念とか、思想など普段言葉による表現を必要とするものを直按表現するのには、そもそも向いていないということだ。それらに関しては、おそらくやはり、言葉を用いるべきだろう。映像そのものは別の何かを具体的には表現してくれない。ただ僕らの目に変わって、感覚的なもの、その場に漂っている空気的なもの、言葉には表現できないものを表現してくれるだけだ。僕らが普段言葉を使って、すべての事柄に渡って表そうとしているのは便宜上止むを得ないことで、無理をしているというだけだ。味なんていうのも、実際それを嘗めてみて、やっとどんなものかわかるものだ。映画のほかさまざまな芸術形式があるけども、それらはお互い代用となることは決してなくて、それ自身侵しがたい領域をそれぞれ持っている。映画というものも、文学や演劇を手助けるためでなく、映像という主力をつかさどるためにある。これが映画の存在する理由だ。
 そんなわけで、映像、つまり映画は、あくまでも視覚的という感覚的なもだということになる。

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2012.09.01

8mm映画創造の方へ 映画を超えて(2)

 この機関誌の原稿はワープロ打ち。まだPCが一般的ではなく、ワープロ専用機がようやく一般的になり始めた頃だ。この原稿掲載の機関誌の編集はすでに後輩の代になっていたのだけど、あたしが編集した2冊のうちの2冊目から初めての一部ワープロ打ち、かつ、コピーによる印刷とした。それまではボールペン原紙に手書きの原稿を作り、学生部の輪転機を借りて印刷を行っていた。セッティングに失敗すると原稿が丸々一枚ダメになるし、インクまみれになる作業で、ページ数が多いと手強いものだった。

 費用は高くなるが、コピー機を使っての印刷は非常に手間が省けて、それまでの倍の100ページ超えの機関誌を製作することも容易くなった。それまで部員には無償で配布していたものを更に価値あるものとするため、希望者のみの実費有償配布とし、企画にもこれまで以上力を入れ、こだわったものにした。ちょっとした時代の変換点を作ったように思っている。


8mm映画創造の方へ 映画を超えて
I 映画の始源「映像」へ(1) (IDE vol.40 1989:p88-89)


I 映画の始源「映像」へ


映画創造の始まり

 「僕は映画を創りたいんだけども、それを人に観せるために創るんじゃない。先ず自分がそれを観たいから創るんだ」
 僕は一回生の頃からそういってて、よく喧嘩になった。観せる必要のない映画をなぜ撮らなきゃいけないんだ、たいていの奴はそういった。もっとも僕自身撮った映面を人にまったく見せたくないってわけじゃないんだけども、そんなことよりも、もしそれが本当に完璧にできたなら誰にも観せず、そのまま捨てちゃっても、それでもいいんじゃないかという感じがあった。ずいぶん変に思われるかもしれない。また、たぶん自己満足で映画を撮っているともいわれるかもしれない。表面的にはそう取れるかもしれないけれと、そういうのとはちょっと違う。
 ジョージ・ルーカスは、『スター・ウォーズ』(1977)で監督業から手を引いた。なぜか知らないけども。それからは、製作総指揮というよくわけのわからない役割でもって、自らメガホンとることなく、観客というものに近い立場から「自分が観たいような映画」を監督に撮らせることにしたらしい。
 「自分が観たい映画」という点では、ルーカスと僕は共通してるけれと、根本的なところは全く違う。ルーカスは、観たいからほかの誰かにつくってもらう、といい、僕は、観たいからこそ自分で創らなきゃいけない、という。この違いというのは、自分の観たい映画が撮られるのに第三者が関わってもよいかよくないか、という大きなものだ。
 僕はまた、こういうこともいった。
 「(僕が映画を創りたいのは)自分自身の頭の中にある世界をフィルムの上に、誰もが見られるように具現化したいからである。映画製作は少なからず天地創造の感がある」


映像の発見

 今まで映画いうものを十数年観てきて、正直なところ飽きていた。たぶん数千観ているだろうと思うけど、お話としての映画っていうのは、いってしまえばどれもこれも同じで、目新しいもの全くない。全くない、全く。目新しければ、いい、とまでは思わないけれど、目新しいものさえもない。どいつもこいつも男と女が出てきて、なんたらかんたら… そういうことはすでに数年前から感じていた。
 全部ある種のバターンを踏んでいる。さらに簡単にいってしまえば、起承転結、チャンチャン。それが僕の観て来た映画のすべてだ。そういったストーリー・テラーとしての映画には全く興味なくなってしまったんだけれど、なぜか映画を観続けていた。やはり映画が好きなわけ。不思議なことにそれでも、観たくて観たくて仕方ない。映画のお話は詰まらないのに映画を観なくっちやいけない。苦痛だよね、こんなの。でも観ている。
 そうしているうちにあることに気が付いた。映画ってのは映像なんだって。僕が映画を観ているのは、物語のためじゃなくって映像のためなんだって。映像があるから映画なんだって、気がついた。これは僕にとって大きな発見だった。映画は、映像だってことを皆知っているだろうか。知っていないとはいわないけども、実感としてそういうのあるだろか。僕には疑問だ。
 ちょっと簡単な実験をしてみようと思う。こういうのを想像してみてください。ます、映画館に映画を観に行く。途中まで観てたんだけども、映写機が故障してしまったみたい。音声が出ない。でも、画は映っている。スケリーンの中では人間が何かしている。これは映画じゃない? さて、どうだろう。これは、映画だ、やっばり。少なくとも、映画の端くれのような気はする。今度は、ランプが切れた。真っ暗やみに、音だけが響いてる。これは、映画? どうだろう。とても映画のような気はしない。
 こんどは、映画館じゃない。街に買物に行って、目の前に夕映えの街角が広がっている。とても美しい。そして、ふと「まるで、映画に出てくるシーンのようだね」なんていってしまう。時には、「映画のような話」、なんて言い方するけども、でも別に、「恋愛小説のような話」っていったって差し支えない。映画にはどちらかといえば映像的なものがつきまとっている。それは、そもそもどうして映画が生まれてきたのかというと、止まった絵・写真には物足リなくてそれを動かそうとして、生まれて来たからだ。


映像は語るか?

 映画に映像って簡単にいっているけども、実はこれがずいぶん難しい。映画は映像という場含、映像は単に役者を映すだけじゃなくなる。じゃ、どういう風なのかというと、役者の演技台詞を説明(再現)するだけじゃなくて、あくまでも映像それ自体が何かでなければならないことになる。役者が写ってなくても映像は、映像だから。これは、音楽が歌詞がなくっても、音楽であることには違いないっていうことだ。
 今の映画っていうのは、役者中心で、言い換えれば、ステージの上で演技している役者を適当に撮っていりゃ、それはそれで映画として成り立つという感じがある。とはいっても、ロングとか、アップなんて、多少は考えていますけど。でも、実はそうでなくって、映画っていうのは、役者なんていたっていなくたっていい、映像だけで何かを表現することができればいいんじやないですか、映画は映像っていうからには。歌詞のない音楽を音楽じゃないっていうことは、間違っているように。また音楽は歌詞が素晴らしいんだ、といって、曲を取ってしまって歌詞だけにしたら、これは単なる詩の朗読になってしまう。
 役者は、台詞をいってくれるけども、映像ってのは意地の悪いことに具体的に何も語ってくれないじゃないか。役者がしてくれているように、僕の代わりに映像が何かを語ってくれるとでもいうのか。そういう言い方もできると思います。でも、映像っていうのはそんなもんじゃない。
 もっとも、この"語る"ということにも問題がある。映像は具体的に何も語ってくれないっていったばかりだけど、言葉で語るっていうのは、案は、少しも具体的じゃない。ここで、語るっていうこと、つまり役者の使う言葉というものについて考えてみましょう。

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